ショートショートトーキョー

ファビアン(あわよくば)

第4話 老婆の奇跡

「監督、どうしますか? 交代枠は全て使っています」

「ん……。まだ残り十分もあるな。やむを得ない」

 森痩(もりやせ)は唇を噛み締めながら、背番号99をピッチに投入することを決断した。

 国立競技場の巨大スクリーンには、VIPシートに座る宮餅(みやもち)会長の苦虫を噛み潰したような顔が映し出される。

 背番号99を乗せた担架は、左膝を抱えて横になるストライカー象安(ぞうあん)のところへ駆け付けた。

七万五千人のホームサポーターからはブーイングの嵐だ。

ブラジル代表の選手たちと五千人のアウェイサポーターは、象安が治療される光景を不思議そうに眺めている。

残り十分+アディショナルタイム。

なんとか十人で戦うことを避けられそうなサッカー日本代表・サムライブルー。果たして1ー0のリードを守り抜き、ブラジル代表から初勝利をもぎ取ることができるのか——。

この試合は日本のサッカー史に語り継がれるものとなった。


時をさかのぼること、四ヶ月前。

ドイツ・ミュンヘン。ホイッスルが試合終了を告げる。

試合を終えた象安はアリアンツ・アレーナのベンチで夜空を眺めていた。

3−2での勝利。自身のプロキャリア初のハットトリック。しかも国内の最強チームであるバイエルン・ミュンヘン相手に、アウェイで達成することができるなんて……。

 最後の数分で自身の膝に怪我を負ってしまい交代を余儀なくされたが、そんなことは気にもせず、格別の勝利に酔いしれていた。

 左膝に違和感を覚えたのは、試合が終了してホテルに到着してからのこと。マッサージを受けていると徐々に痛みが増し、曲げるのも痛い状態に陥った。試合が終わってアドレナリン分泌が落ち着いたことで、痛みが浮き彫りになったのだ。

 捻挫したかもしれない。まあ、軽度だろう。おそらく来週末の試合は出られないが、仕方がない。サッカーに怪我は付きものだ。

異変に気がついたトレーナーは、慌ててメディカルスタッフを呼んだ。診断してもらうと、軽度ではなく中程度の捻挫らしい。象安は二週間の経過観察を言い渡された。

 天国から地獄へ突き落とされたのは翌朝だった。

 激痛で目を覚ました象安。左膝を確認すると、パンパンに腫れ上がっている。嫌な予感が広がった。この時すでに単なる捻挫ではないことを悟っていた。再びメディカルスタッフに膝を見せると、すぐさまミュンヘン市内の病院で検査することになった。


 MRIの結果、半月板損傷だと診断された。全治は四ヶ月の見込みだ。

 くそ。調子が良くて体もキレている時にあんまりだ。リーグ戦はこれから佳境へ向かうのに。全治四ヶ月ならば、五月に終わる今季のリーグ戦にはもう出場できない。それだけじゃなく日本代表の試合も控えているのに。三月、六月の日本代表戦に招集されはしないだろう。タイミングが悪すぎやしないか……。

いつもポジティブな象安もこの時ばかりは打ちひしがれた。

 松葉杖をつきながら病院を出ると、どこから聞きつけたのか、数人のスポーツ記者が待ち構えていた。クラブの公式発表まで待ってほしいものだ。象安は質問を浴びせられるも無視して、車に乗り込んだ。

 昨夜インスタグラムに投稿した自身のハットトリックの映像には十万を超える「いいね」がついていた。コメント欄にはチームメイト、前所属チームのチームメイト、日本代表のメンバーからの祝福が並ぶ。まだ怪我をしたことは知られてないようだ。

一つひとつにリアクションを返し終わり、タイムラインを眺めていると、ある一つの投稿が象安の目に止まった。ロンドンのクラブに所属している冨椰子(とみやし)がプレーする動画だった。

 え? ヤシは今、怪我しているはずじゃ……。

 しかも俺と同じ、膝を。

 投稿日を確認すると、昨日だった。象安と同時刻にプレーしていたことになる。

 日本代表で切磋琢磨している選手が復活したことに嬉しくなると同時に、疑問が浮かんだ。怪我をしたのは一ヶ月前、しかも半月板なのに、どうやってこんなに早く治したんだろう。

 よっぽどヤシのクラブのメディカルが優秀なのだろうか?

 なにか治療やリハビリのヒントをもらえるかもしれない。そう考え、象安は冨椰子にメッセージを送った。


***


 一週間後、象安は松葉杖を片手に、巣鴨の地を踏み締めていた。

地蔵通り商店街の入り口でタクシーを降り、商店街のアーケードを潜る。「おばあちゃんの原宿」と形容されるだけあって年配の方で賑わっていて、脇には煎餅・塩大福などを売る和菓子店が並んでいた。どこか懐かしい昭和の香りが漂う街並みだ。

 象安は松葉杖の先端が地面の凸凹に引っかからないように注意しながら歩いた。

「いつも見てるよ。頑張って」

 声をかけられるごとに会釈し、記者が追いかけてきそうにない町であることに安堵した。

 しばらく歩くと、線香の香りが漂ってきた。象安の目指しているのは高岩寺。巣鴨のシンボル「とげぬき地蔵」で有名な寺だった。

 ヤシ曰く、確か、このお寺の境内に……。

 とりあえず、ここでできることは全て行おう。

 象安は授香所で線香を買って点火し、大香炉にくべ、香りで自らの身心を清めた。午後の特別祈祷に申し込み、本堂で約二十分間の法要と五分の法話を聴聞した。厄除けや身代わりのほか、お御影(みかげ)のお札も購入した。

 江戸時代、ある武士の妻が病に苦しんでいた。そんなある日、地蔵菩薩が武士の枕元に立ち、お告げをしたという。武士はそれに従い、地蔵の姿を印した紙を一万枚、川に流した。すると妻の病が回復したらしい。この話に基づいているのが、寺で配布している「御影」だ。その後、ある女中が針を誤飲した際に「御影」の紙札を飲み込むと、針を吐き出すことができた。それ以来「とげぬき地蔵」と呼ばれ、病気の治癒や改善、心の病の解消、悩みの解決などにご利益があるとされている。

 簡単な説明を受けた象安は、今の自分にぴったりだと思った。

本堂を背にして右側に目を向けると、境内の脇に、簡易的なスロープに沿って参拝客がたくさん並んでいた。その先には濡れた観音様が鎮座していた。

これがヤシを全快させたという「洗い観音」か。

象安も列のあとに続いた。

「あんた、日本代表の子だねえ? 怪我したの?」

 前に並んだ白髪の婆ちゃんに尋ねられた。クラブの反対を押し切って帰国しているので身バレは防ぎたかったものの、「違います」なんて言えるわけもなく、応じる。

「ええ、ちょっと膝をやっちゃって」

「それなら濡れたタオルでたくさん擦りなさい。私も腰が痛くなるたびにここに来てるの。本当に治るんだから」

なるほど、とげぬき地蔵はオールマイティにご利益があり、洗い観音はフィジカルに特化しているというわけか。

「お先にご利益いただくわね」

 白髪のお婆ちゃんはエコバックからタオルを取り出し、観音様の前に用意された小さな手水舎の水を、柄杓でかけた。

 驚いたのは、お婆ちゃんが使っていたのが日本代表のタオルだったことだ。糸がほつれてボロボロになっている。

「え、それ?」

「年季が入ってるでしょう? 昔はよく夫や子どもと見に行ったのよ」

「そうなんですか」

「ゴール裏陣取ってね、メガホンで声出してたわよ。太鼓叩かせてもらったのも良い思い出よ」

 ゴール裏? 最も熱のあるサポーターが集まるところだ。

優しそうなお婆ちゃんが、筋金入りのサポーターだったなんて信じられない。

そうか、Jリーグが開幕してもう三十年だもんな。先輩方を応援していた時が四十歳だとしたら、もう七十歳になっている計算になる。

象安が物心ついた時には、すでにサッカーは人気コンテンツだった。連綿と受け継がれてきたサポーターの想いに触れ、責任を感じた。必ず治さないと。

「じゃあね。ワールドカップ優勝してね、おばちゃんが生きてる間に」

「はい!」

象安は所属クラブのタオルをヒタヒタに濡らして、観音様の膝の部分を拭きまくった。

治りますように、どうか俺の半月板よ、全快してくれ。この左膝に、自分の未来、日本のサッカーの未来が詰まっているんだ。どうか。

 最終的には、欲張る心がひょっこり現れ、洗い観音の全身をタオルで拭きまくったのだった。


***


【極秘帰国! 大怪我の日本代表10番。まさかの神頼み】


 JFA(日本サッカー協会)の執務室、会長である宮餅は森痩監督を呼び出していた。二人の間の机の上には、ある週刊誌が置かれている。

「ずっと付けられていたみたいです」

 週刊誌には、五枚の写真が掲載されていた。

松葉杖をついて地蔵通り商店街を歩いている象安、線香を大香炉にくべる象安、洗い観音をタオルで擦る象安、豆腐屋で豆腐ドーナッツを購入する象安、記者に質問されて焦ったのかマスクをつけてフードを被った象安。

「クラブにわがままを言って帰国していたみたいです。日本代表の規律違反にはなりませんが、どう考えますか?」

森痩は返答に困った。

頭の中をあらゆる思考が駆け回る。

確かに日本代表の一員として褒められた行為ではないだろう。クラブの意向を無視して無断帰国したのは、クラブのメディカルを信用していないことを意味していると思われても仕方がない。JFAにも連絡がないということは、代表のメディカルさえも……。

しかし森痩自身も現役生活で怪我には悩まされたものだ。短い選手生命、一試合でも多くプレーしたい気持ちも、神頼みしてでも怪我を治したい気持ちも痛いほど理解できる。

それに観音様のご利益で冨椰子の怪我が治ったのも事実だと聞いた。

森痩が返答しないでいると、宮餅が「これが昨日のプレー映像です」と動画を再生した。

そこには右サイドをドリブルで切り裂き、ゴールを決める象安が写っていた。

「素晴らしいプレーだ。本当に治ってますね。でも……二週間で半月板の損傷が治るなんて聞いたことがありません」

「先週クラブから四ヶ月の離脱と発表されてるが、今は怪我のリストから外れてます。このままだと三月の代表に……」

「もちろん選びます」

 森痩は食い気味に答えた。

今の代表に間違いなく象安は必要だ。

「しかし、怪我がなかったことにもできない。現に怪我をした時の映像は残っているわけですし。驚異的な回復ということで処理しましょうか」

「そうしましょう」

「詳細については、公表するのは控えた方が良いですね。洗い観音のご利益によって怪我がすぐ治ると知られたら、騒ぎが起きそうです。それに、この事実を公表したところで、世間は信用してはくれないでしょう」

 宮餅はそう言ったあと、机に腕をついたまま考え込んだ。

 しばらくして何かを閃いたように、森痩に耳打ちした。執務室には二人しかいないのに、耳打ちで伝えるほど極秘な計画だった。

「え。しかし……」

 森痩は宮餅の提案にたじろいだ。

「単なる信仰だと思っていたことが本当だった。これを利用しない手はないでしょう。それに信仰するものがあるって、素晴らしいことじゃないですか。もともとJFAのエンブレムも」

 宮餅はジャケットのフラワーホールを指さした。ピンバッチにはサッカーボールを掴む三本足の八咫烏が描かれていた。

「確かに。信仰と聞くとスピリチュアルないかがわしいものを連想してしまいますが、みんなどこかで神様や仏様に願いを口にすることはありますね。今回はその願いが叶ったケースということで」

「くれぐれも公表しない方向で。冨椰子と象安にもコンタクトとって伝えてください」

「わかりました」

しかしその頃すでに、スペインでプレーしている久久保(ひさくぼ)を乗せた飛行機は離陸していた。彼も週末の試合で靭帯の怪我を負ったのだった。


***


――週間ウェンズデイです。毎日、ここへ?


「あらどうも。ええ。腰が痛くてね。ほぼ毎日ね」


――象安選手に会ったのはいつですか?


「二月だから、三ヶ月前ね。膝が治ったみたいでよかったじゃない」


――他の日本代表の選手には会いましたか?


「久久保くん、飯倉(いいくら)くん、不川原(ふがわら)くん、南寝(みなみね)くんに会ったわ。みんな良い子だから、怪我が治ったのよ。昔は本出(ほんで)くん、苦友(にがとも)くん、百谷部(ひゃせべ)キャプテンも来たことあるわよ」


――では、日本代表の異例の選手選考には賛成であると?


「えっ?」


***


 六月。ひばりは約二十五年ぶりにゴール裏に陣取っていた。

 インターネットやテレビに疎くて、週刊誌の記者に教えられるまで、三月の日本代表戦で何が起こったか知らなかった。もちろん洗い観音が日本代表のメンバーとして選出されていたことにも。

 耳にしたときには、怒りに狂いそうだった。

 冗談じゃない。私たちの憩いの場に、心と身体の拠り所に水をさすなんて。

 三月のあの日、観音様が高岩寺に居なかったのはそういうことだったのね。

 三月の二連戦では誰も怪我をしなかったので、観音様の出番はなかった。しかし、ひばりの胸中は穏やかではなかった。

 ひばりは孫にXのアカウントを作ってもらい、怒りのままポストを繰り返した。

「盗人、JFA」

「観音様を巣鴨へ返せ」

「老人の病気と、若者の丈夫な体、どっちが大事か!」

 ポストは賛同を得て、みるみるうちに拡散された。

 ひばりの怒りはそれだけでは収まらなかった。

 若い頃、あんなに応援してきたサッカーに裏切られた気分だった。観音様はいつ行っても、そこに在ることが大切なのだ。年寄りの大事なものが、若者に振り回されてはいけないのだ。

 ひばりの年代になると、現役世代を引退している友人が多い。つまり、その少し下の世代の後輩たちは、ほとんどが会社で重役を担っていた。ひばりは思いつく限りの友人や後輩に協力してもらい、日本代表のチケットを買い占めようと考えた。当日、ゴール裏から抗議するつもりなのだ。

 そして当日。

「ひばりさん、見てください」

 観客席へと続く階段を登り終えたひばりがスタジアムに目を向けると、老人で埋め尽くされていた。

「あら。良い景色だわ。舐めるなってことよ」

 ひばりは得意げに笑った。「皆、各々の想いを言葉にしてきましたよ」と友人が、ひばりをゴール裏へと案内する。

【恥を知れ】

【観音選手、絶対反対】

【仏像返せよ、我が町に】

「学生運動を思い出すわね。ヘルメットはあるかしら?」

 同志が掲げるプラカードを見て、ひばりは高揚しておちゃらけた。腰の痛みも忘れていた。

「あれから考えたのよ。試合の時間、たった二時間なら観音様を貸しても良いのかもしれない。若者が喜ぶならって。私もサッカーは好きだしね」

「ええ」

「でも一つ許すと、規則や約束というものは雪崩式に崩壊するものなの。怪我をするたびに観音様のいるところに治しに来るならまだしも、連れ出すことを許したら、ね」

「というと」

「今に野球協会だの、ラグビー協会だの、バレーボールだの、陸上だの、水泳だの、観音様の奪い合いになるわよ。試合の度にどこかに連れて行かれて」

「そんなことになったら、私の足腰も」

「治らないわよ。我慢するのは、いつもどこかが調子わるい老人」

「それは困ります……」

「今日はね、こうやって皆が抗議に集まってくれたけれど、私、サッカー協会がおかしなことしたら、出るとこ出ますからね。見てなさい」

 ひばりが席に着くと、キックオフのホイッスルが鳴り響いた。


***


 森痩は緊張感を持ったまま、ピッチ脇から指示を出していた。

 サッカー協会が努力に努力を重ね、ブラジル代表とのマッチメイクを実現してくれた。それなのに、こんなにアウェイの雰囲気で戦うことになるとは。

 確かに、洗い観音をメンバーに加えたことによる抗議は想定していた。ただ想定を上回ってしまった。まさか反対派がサポーターシ―トを埋め尽くすなんて。居心地の悪さは中東や韓国での試合を想起させていた。

 スタッフの一員として観音様を参加させることも考えた。しかしスタッフ陣にはそれぞれ役割があり、コーチ・メディカル・食事など一枠として空きがなかった。仕方なく選手登録するしかなかった。サッカー協会幹部は話し合い、後ろから支えてくれという意味を込めて、背番号99を与えた。

一連の決断が、ここまで大事になるとは……。

洗い観音は今、青いユニフォームを着せられ、ベンチの端の席におおらかな顔をしたまま鎮座している。もちろんユニフォームはサイズぴったりのものを特注で作ってもらった。

「久久保、上がれ」

「飯倉、もっとラインを前に」

四笘(しとま)は前に残れ」

 森痩の力ない声は選手まで届かなかった。森痩にも届いていない実感があった。

 それでもなんとかゴールキーパー鈴毛(すずけ)の活躍で、前半を0ー0で折り返すことができた。

 

後半。

 開始すぐ、冨椰子からのロングボールを象安がトラップし、ドリブルで相手を打開すると、ペナルティエリア内でファールをもらった。

 観客席は静まり返った。

 怪我はしたのか?

 怪我をしたのなら、観音様がピッチに登場するはずだ。その時は、奪い返してやるぞ。

 そんな雰囲気が充満しているような悪い予感を覚え、森痩は手に汗握った。

 しかし、象安は何事もなかったかのように立ち上がり、PKを蹴るためにボールをセットした。

 会場全体はブーイングに包まれた。響き渡る「観音様をだせ」「怪我しろ!」の声。

 象安は苦笑いしながら、ペナルティキックをゴールに沈めた。

 それからもブラジル代表の攻撃に耐えに耐え、ついに時を迎えた。

 残り十分。

 再び象安が削られ、ピッチに蹲(うずくま)ってしまったのだ。

「監督、どうしますか? 交代枠は全て使っています」

「ん……。まだ残り十分もあるな。やむを得ない」

 森痩は渋々、背番号99をピッチに投入することを決断した。

 国立競技場の巨大スクリーンには、宮餅の苦虫を噛み潰したような顔が映し出される。

 洗い観音を乗せた担架は象安のところへダッシュした。

横にするとバチが当たると考えたのか、背番号99は担架の上に直立していた。倒れてもバチが当たりそうなので、スタッフの一人が必死で支えている。

七万五千人のホームサポーターからはブーイングの嵐だ。

「ドロボー。観音様を返せ」

「ワシも膝が痛いわ、どうしてくれるんじゃあ」

「99って、救急とかけてるのか。面白くないぞー」

「ワシらにも、意地があるからの」

 スタッフは倒れている象安の隣に、洗い観音を立たせた。

 象安は歯を食いしばって痛みに耐えながら手を伸ばし、用意された柄杓で水をかけ、タオルで観音様の膝を擦った。

 た、助かった……。

象安はすぐに立ち上がり、治ったことをアピールするためにジャンプを繰り返した。

ブーイングに包まれていた国立競技場も、観音様のご利益のパワーを目の当たりにして歓声が上がった。

森痩もその様子に拍手を送ったけれど、視界の左側には乱入者を捉えていた。

 ゴール裏に陣取った熱狂的老人サポーターたちがピッチに雪崩れ込み、象安に向かって走っていたのだ。観音様を取り返すために。

 ピッチに鎮座していた背番号99はものの見事に奪われ、担ぎ上げられた。老人たちは各々、治したいところがあるので我よ我よとその場で観音様を擦り始めた。

森痩はその中の一人、白髪の老婆の動きを見逃さなかった。

洗い観音に水をかけたかと思うと、腰をタオルで擦り、姿勢を正した。そしてなんと、そのまま象安の隣にあったボールでドリブルを始めたのだった。

日本代表、ブラジル代表の誰もがあっけに取られた瞬間だった。老婆のどさくさに紛れたドリブルはものの見事にディフェンスラインを突破し、あっとゆう間にゴールを決めた。

「ひーばーりー、ひーばーりー」

 スタジアムから湧き起こる歓声。感情の爆発。この日初めて選手と観客が一体となった瞬間だった。

 慌てて審判が試合を止めた。

 老婆の得点はもちろん取り消し。

 試合は結局、日本代表が守り抜いて1ー0で勝利した。

 しかし、勝利の美酒に酔いしれることはなかった。

この試合は、結果よりハプニングが記憶に残ることとなったからだ。日本サッカー史とサポーターの心には、「ドーハの悲劇」ならぬ「老婆の奇跡」として刻まれている。




※次回の更新は、2025年2月7日(金)の予定です。