ショートショートトーキョー
ファビアン(あわよくば)
第10話 伸びしろ
日曜日の新大久保は騒がしすぎる。
狭い歩道にごった返す人混み、大音量のKーPOP、韓国料理屋や韓流アイドルのグッズショップから伸びる行列。人の多さの割に横断歩道が少なく、二車線の狭い車道を横切ろうとする人が絶えない。そのたびに耳をつんざくようなクラクション音が鳴り響く。桃子の誘いに乗り気になったとはいえ来るんじゃなかったと、詩乃は激しく後悔していた。
輪をかけて詩乃の心を苛立たせたのは夏の暑さだった。せっかくのお出かけだからとちゃんとめかし込んできたのに、駅から目的の店まで歩くだけで汗がにじみ、化粧が落ちていく。クーラーの効いた部屋でゆっくりとテレビでも観ていた方が有意義だったに違いない。もう帰りたい。やんなっちゃう。そんな思いが詩乃の足取りを重くさせたけれど、どうせ来たならと、桃子の薄手のカーディガンの裾を掴んでついていった。
「詩乃、ほらもう少しだから」
桃子の歩調は、詩乃の重い足取りと対照的に、軽やかで、疲れを知らないようだった。人混みをかき分け、すいすい進む彼女に、詩乃は苛立ちと羨ましさを覚えた。同じ地域で同じように暮らしているはずなのに、どうしてこんなにも体力に差が生まれるのか——。不思議に思いながらも、詩乃は精一杯の力を振り絞って歩いた。
桃子から占いに誘われたのは先週の金曜日だった。「すごく当たるらしいの」と、桃子は目を煌めかせていた。場所を尋ねると新大久保だという。二人の暮らす立川から中央線で新宿まで行き、新宿で乗り換えて一駅だ。詩乃は久しぶりの遠出に心を躍らせ、すぐに快諾した。これまでも桃子に誘われて出かけたことはたくさんあったけれど、その中でも一番の遠出だった。「占い」と大きく手帳に書き込み、それから一週間と二日ずっと楽しみにしていた。同時に、何を占ってもらえばいいのか思考を巡らせた。
桃子曰く、恋愛に特化した占いだという。韓国の狎鴎亭(アックジョン)というおしゃれな街で一号店がオープン。女性インスタグラマーが気になる男性との恋仲を占ってもらい、良い結果が出たことに後押しされてアタックし、見事に恋を成就させたそうだ。なんとその相手というのが世界で活躍する韓流アイドルで、『ビッグカップル誕生』とニュースになった。店には行列ができ、すぐに弘大(ホンデ)・聖水(ソンス)・漢南(ハンナム)などに店舗を拡大し、地元の若者が押し寄せた。それから明洞(ミョンドン)に出店したことで観光客にも認知され、今では東京・大阪・福岡・北京・ニューヨークなどにも進出しているのだという。
「着いた。この列だと思う」
運動不足のせいか膝が痛くなり、限界を迎えそうだったタイミングで到着した。詩乃は一旦その言葉に胸を撫で下ろしたものの、すぐに不安に包まれた。「最後尾」と書かれた看板の先には果てしない行列が続いていたのだ。これ以上、炎天下にいるのは危険だ。詩乃は桃子のカーディガンを掴む手を離して、すぐに日傘を取り出した。桃子は「本当にここで合ってるか確認してくる」と列の先に歩いていった。詩乃は場所取りも兼ねて、最後尾に並んだ。
「コースケ先輩、絶対ミサキのこと好きだって。だって映画行くんでしょ?」
「行くけどさあ、友達としてかもしれないし。学校では喋らないし」
「いや照れてるだけじゃん? 絶対好きだって」
「他校に彼女いるって噂もあるし。ハルヒもトワとライブ行くんでしょ?」
「やめてよ〜あたしは幼馴染だし、今は趣味友って感じかなあ」
前に並ぶ制服姿の女性二人からそんな声が聞こえる。ミサキちゃんはまんざらでもなさそうな顔をしているけれど、占いに後押しして欲しいのだろう。ハルヒちゃんの方も嬉しそうではある。キャッキャとはしゃぎながら恋愛話で盛り上がる二人に、声援を送るかのように蝉が鳴きはじめた。
列が少し進む。行列は遠くでカーブしていて、店の外観はまだ見えなかった。桃子が帰ってきて「やっぱりここだ」と一緒に待ち始めた。
桃子はきっと颯太(そうた)とのことを占うのだろう。きっとというか絶対。自分は誰とのことを占えばいいのだろう。詩乃は考え続けているけれど、一向に答えが出なかった。
「颯太のことが好きなんだよ」
桃子からそう打ち明けられたのは、半年前だった。食堂でいつも颯太のことを眺めていたので薄々勘付いてはいたけれど、面と向かって言われるとは思わなかった。続けて「付き合いたいから、応援してほしい」と告げられ、詩乃は「わかった」と返すほかなかった。返す刀で「私も颯太のことが好きなんだ」だなんて、口が裂けても言えなかった。恋のライバルになって腹の探り合いをするより、桃子との関係を良好なまま続けることを選んだのだ。
「詩乃は源(げん)のこと好きなんでしょ?」
「え?」
「だって、ずっと食堂で見てるもんね。私も応援するから」
颯太が見える位置に桃子が座るので、詩乃は必然的にその対面に座っていた。その視線の先で源が昼食を取っていることが多いけれど、まさかそんな勘違いをされるなんて思いもしなかった。源はいつもカツ丼をバクバク食べて、ご飯粒を丼鉢に残したまま返却するので、どちらかというと苦手だった。ガサツだし。
その夜は落ち着かず、部屋を暗くしてベッドの上で桃子の言葉を反芻していた。「颯太が好き」「付き合いたい」「応援して欲しい」——。「私と颯太はお似合い」「運命の人」「赤い糸で結ばれている」、ぼーっとしていてあまり耳に入ってこなかったけれど、確かそんなことも言っていたような気がする。桃子の気持ちはわかったけれど、ダムが決壊したように気持ちを伝えてきたのは、私への牽制ではないだろうか。実は私が颯太に惚れていることに気が付いて、邪魔されないようにあえて自分の恋心を表明して、私に身を引かせようと企んでいたのでは。だとすると……悲しい。親友だと思っていた桃子にそんな仕打ちを受けるなんて。「私も颯太が好き」と本心を告げたらどうなっていただろう。負けず嫌いの桃子のことだから「じゃあ正々堂々と勝負ね。これからは恋のライバルってことで」……なんてことにはならない。そんな清いタイプの負けず嫌いではなく、どちらかというと腹黒い。私が颯太とうまくいかないように画策したり、変な噂を流したりするかもしれない。ほら、数ヶ月前、保護者も参加するお楽しみ会で人狼ゲームをした時も、桃子の嘘を誰も見抜けなかった。桃子という狼にみんな食い殺された。狡猾な嘘と詭弁を巧みに使って、保護者もろとも出し抜いたのだ。親友だけど信用しすぎてはいけない。恋のライバルになったって勝てるわけがない。絶交で済めばまだマシ。下手したら物理的にも精神的にも追い詰められて居場所がなくなるかもしれないと、詩乃は桃子を畏れていた。
詩乃はベッドの上でしだいに呼吸が速くなっているのを感じた。すぐに手足が痺れ、目眩がしてきた。過呼吸だと気がつき、ぐにゃりと歪んだ視界の中、なんとか机の上に手を伸ばし、あたりを探って紙袋を発見した。鼻と口を覆っておまじないのように「落ち着け、落ち着け」と自分に言い聞かせながら呼吸を繰り返して、やっとのことで落ち着きを取り戻すことができた。考えすぎたらだめだ。詩乃のことも颯太のことも。考えすぎないようにしよう。
部屋の明かりを付けると、紙袋は颯太がいつかクッキーを入れていたものだと気が付いた。持参したクッキーを食堂で食べたあと、ゴミ箱に捨てたのをこっそり持ち帰ったのだ。颯太が過呼吸から救ってくれたんだと、詩乃は運命を感じたのだった。
並び始めてから五十分が経過し、しだいに順番が近づいてきていた。数メートル先の角を曲がればすぐに店に辿り着くはずだ。桃子のハンディファンからたまに風を拝借して暑さを凌ぎながら、詩乃はまだ何を占ってもらうか決めかねていた。占いということは、二人で個室に入って色々と打ち明けることになるはずだ。桃子の颯太への想いを聞いて平常心でいられるだろうか。そして自身は何を話せば良いのか。今日は桃子に流されたらいけないことだけはわかっている。源との仲を占ってもここに来た意味がない。
詩乃が逡巡(しゅんじゅん)していると、前の方で急にキャーッと歓声があがった。列の先を確認すると、並んでいる皆が拍手で誰かを祝福しているようだった。
何が起きた?
数秒後、列の間をかき分けるように女性が後退りしてきた。皆、彼女に拍手を送っている。桃子も笑顔で拍手を送り「羨ましいな」と呟いた。
詩乃が何より驚いたのは、後退りしていた彼女の口から何かが伸びていたことだった。びよーんと、たるんだ白いものがカーブして店の方に続いている。「ちょっと見てくる」と詩乃は桃子にその場を任せて、歩いていった。
詩乃が見つけたのは、ただの屋台だった。ハングルで「치즈 핫도그」と大きく書かれた下に、申し訳程度に日本語で「チーズハットグ」と記されている。拍手を送られた彼女が食べていたのはチーズハットグだったのだ。
詩乃は慌てて列に戻った。
「ねえ、並ぶ列間違えてるよ。ここじゃない。ただの屋台だもの」
「ここで合ってるよ」
「え? 先にご飯食べようってこと? 私、揚げ物は胃にくるからあんまり」
「じゃなくて。あれ、言ってなかったっけ? 今日はチーズハットグ占いに来たんだよ?」
「え!」
「チーズがどれくらい伸びるかで占うんだ」
さすが韓国発祥。
まさかそんな占いがあったとは!
全貌が明らかになったのは、角を曲がって店の外観が全て見えたときだった。ルールのようなものが看板に書かれていた。
5m以上……運命の人。結婚する。一生幸せに暮らし、同じ墓に入る。相手も待っている。すぐにアタックすべし。
4m以上……両思い。告白は絶対成功する。あとは貴方たちしだい。続くといいね。
3m以上……両思いかも。十中八九うまくいく。相手に恋人がいてもアタックしたら振り向いてくれるかも。
2m以上……七割成功。ただし相手に恋人がいない場合。後悔するくらいなら告白しなさい。
1m以上……五分五分。相手の気分やタイミングによっては付き合えるかもね。
50cm以上……三割。付き合えるかもしれないけど、相手には他に好きな人がいるかも。遊びの相手にならないよう気をつけて。
30cm以上……一割。一か八か告白してみる? それも人生、それが人生。
30cm未満……やめておきなさい。良いことがありません。不幸になります。別の素敵な人を見つけてください。大凶。
なるほど、チーズが長く伸びるほど良い結果ってことか。面白い。まあ、そんなものもあるか。世界には亀の甲羅や鹿のツノを火で焼き、そのひび割れ方によって吉凶を占うものもあると聞いたことがあるしと、詩乃は無理やり納得させた。
さっき拍手を浴びていた彼女は5m以上という結果を出し、それを見た皆が祝ったのだった。並んでいる中には恋愛に悩んでいる人も多いだろうに。人の恋愛を自分ごと化して祝福するなんて、なんて心が広いんだろう。彼女は最終的に伸びたチーズを手で口に押し込んで、リスが餌を蓄えているように口内がパンパンになっていたが、事情を知ると、それも美しい光景だと詩乃には思えた。
店員が拙い日本語で説明しているのを聞いていると、桃子が口を開いた。
「伸びしろ、ってことだよ。自分と相手の関係性のね」
「面白いね。ドキドキしてきた」
「ドキドキって、詩乃は源とのこと占うんだよね?」
「え?」
しまった、と思った。
詩乃の頭の中はすでに颯太のことでいっぱいだった。
「いやまだ源のこと好きって、はっきり聞いてないからさ。言ってくれたら色々と相談に乗れるのに」
「ああ……。わからないんだ自分の気持ちが」
「え? それなのに今日行きたいって言ったの?」
「え、っと、うん。ごめんね。今日までに気持ちが決まるかなって」
「もうハットグ食べるまでに時間がないよ。腹を括って気持ちを決めないと。良い結果出たらアタックしなよ。応援するから」
「うん、そうだね」
詩乃は本心を言い出せないまま、墓穴だけを掘り続けた。
前の制服二人組の順番がやってきた。
コースケ先輩と映画に行ったらしいミサキちゃんがチーズハットグを頬張る。目を瞑って、相手のことを考えているのだろう。一気に自分の口から引き離すと、チーズがどんどん伸びていった。歓声があがる。チーズハットグの持ち手をハルヒちゃんに渡し、ミサキちゃんは後退りする。
「ストップ」
チーズが途切れたところで店員がそのように声を掛け、スタート位置との距離をメジャーで測った。
「1m95」
ああ……と歓声がため息に変わった。看板に示された基準だと『五分五分。相手の気分やタイミングによっては付き合えるかもね』の位置だ。ミサキちゃんは少ししょんぼりしながらチーズを口の中に詰め込んだ。
ハルヒちゃんの番だ。
幼馴染のトワくんのことを考えているのかは定かではないが、チーズはどこまでも伸びていった。ミサキちゃんの時より大きな歓声が上がり、ハルヒちゃんは後退りで角のところに差し掛かる。うまく右折すると、ちょうどそこでチーズが途切れた。
「4m20」
どっと歓声が沸く。ハルヒちゃんはトイレットペ―パーを巻くようにチーズを巻き取り、口の中に詰めた。他にやりようがなかったのか。
「ほら! 絶対トワとうまくいくよ。トワのこと思い浮かべてたんでしょ?」
「えー内緒だけど、まあ、そうだよ」
「もう〜言ってよ。ディズニーでダブルデートしようね」
「え?」
「私も、今は五分五分かもしれないけど頑張るからさ」
チーズハットグを揚げる油の温度より熱そうな抱擁が交わされた。詩乃は二人を眺めながら、青春だなあとしみじみ思った。
桃子はどんな表情をしているだろうと目をやると、前の二人の結果を見て気が気でないような顔をしていた。目は血走っていて、顔つきは獰猛で、なんとしても颯太を自分の男にしてやると改めて決意したように拳を握りしめていた。華奢な腕から血管が浮かび上がっている。この占いに全てを賭けるんだと言わんばかりに。
「アイ五百円ネ。好キナ人思イ浮カベテ、伸ビルトイイネ」
詩乃と桃子はお金を払い、まずは桃子が熱々のチーズハットグを受け取った。「うまくいく、うまくいく」と桃子が呪文のように唱えているのを聞こえていないことにして、詩乃は両手を組んだ。桃子の良い結果を祈っているように、見えるように。
桃子がチーズハットグを頬張り、店員の「ドウゾ」の声に合わせて、後退りを始めた。
チーズは待ってましたとばかりに、伸びるという特性を全て使ってどんどんと延伸していく。歓声が湧く。皆が拍手で祝福する。桃子はハットグを噛み締めながらニンマリと笑みをこぼす。2m、3m、4mと後退りして、角を曲がって、姿が見えなくなる。チーズは伸び続ける。大大大大吉。絶対に桃子の恋はうまくいく……そうあって欲しかった。その方がマシだった。
チーズは少し伸びてすぐに両側がちぎれて、だらんと地面に落ちていった。うわぁ……と周りの声もすぐに止み、皆、気の毒なものを見る目で桃子を見ていた。詩乃はすぐに桃子を抱きしめた。肩が濡れ、桃子が涙を流しているのがわかった。当たると噂の占いで悪い結果が出たのだ。そりゃ辛いだろう。
同時に、詩乃に恐怖が押し寄せた。
今この状況で自分に良い結果が出てしまったら……と考えずにはいられなかった。颯太が好きだとバレてはいない。バレてはいないけれど良い結果が出てしまい、占いの通りにこれから颯太と付き合うことにでもなったら、本当に桃子との関係は終わるかもしれない。
「15cm」
店員が桃子に追い打ちを掛けた。『やめておきなさい。良いことがありません。不幸になります。別の素敵な人を見つけてください。大凶』の文字が目に入る。桃子が声を上げて泣き始めたので、詩乃は頭を撫で続けた。
もう帰りたい。お金を払ったとはいえもうこんな占いやりたくない。桃子にどう思われるかわからない。
でも颯太のことを諦めるのも違う気がする。これまでの人生、想いを伝えなくて後悔したことがある。中学生の頃、一つ上の先輩が好きで、告白するのを躊躇っているうちに卒業してしまった。その後で相手も詩乃のことが好きだったと噂で聞いた。その頃、先輩にはもう彼女がいたのだった。
詩乃は頭の中でぐわんぐわんと色々な思考を巡らせながら、自分のチーズハットグを受け取った。
悪い結果でも良い。良い結果の方が困る。でも颯太と付き合いたい。颯太が好きだ。桃子と颯太が付き合うのは見るのも嫌だ。私が颯太と付き合いたいし、桃子との関係も良好のまま続けたい。そう願うことは我が儘なのだろうか。
そうか。
誰も思い浮かべなけりゃいいんだ。
詩乃がそう悟った時「ドウゾ」と合図を受けた。しかし恋は盲目。誰かを思い浮かべているふりをするために目を瞑ると、詩乃の瞼の裏に現れたのは颯太だった。食堂ではほとんどの時間桃子の方を向いているから見えないけれど、桃子が水を汲みに行っている間に振り返って颯太を眺めている。卵焼きや魚を美味しそうに食べている颯太。持参したクッキーを頬張る颯太。たまに目が合い逸らしてしまうけれど、胸の中がアツくなってしまう。やっぱり颯太が好きだ。
でも……。
詩乃は意識が朦朧としてきているのがわかった。チーズハットグを握る手が震え、急激に冷たくなった額にじわりと汗が落ちる。
もうどうにでもなっちゃえ。そんな気持ちで後退りした。詩乃は自分の口元から伸びるチーズを見て目を見開いた。
どうなってるの。何が起きたの?
詩乃の目に写っていたのは、虹だった。詩乃とハットグの間に虹がかかっていた。極度の緊張で幻覚が見えているのか?
そう考えた時、意識は薄れ、足元はよろつき、詩乃は仰向けに倒れた。
「하하, 축하해! 무지개 치즈는‘당첨’이야! 또 하나 공짜!」
聞き取れない韓国語があたりに響いているのをうっすらと聞いた。そこでぷつりと意識が途切れてしまった。
詩乃が目を覚ますと、いつもの光景が広がっていた。灰色の天井にリノリウムの床、窓の奥には枯れた紫陽花が揺れている。
「よかった。気がついた」
丸椅子には娘の詩穂が座っていた。保護者との面会は週に二度の決まりだけれど、詩乃が倒れてしまったので特別に許可をもらったのだ。
「もう、勝手に出かけちゃダメだよ。新大久保までいったんだって?」
「ごめんね。誘われてね、占いに行きたくなったのよ」
「もう、心配するから。桃子さんが助けてくれたんだよ。寒くない?」
詩穂は詩乃の白髪を撫でる手を止めて、掛け布団を直した。
「お父さんのこともあったから本当に心配したんだから」
「ああ、覚えていたのね」
「当たり前じゃない」
娘が中学生の時、詩乃の夫・穂(みのる)は亡くなった。お風呂で脳の血管が切れて倒れ、詩乃が発見した時にはすでに少し冷たくなっていたのだった。
詩乃はベッドサイドの机の上に置いた穂の写真を手に取った。
「まだそっちには行かないよ」
「まだ行かれたら困るわよ。今度は翔流(かける)も連れてくるから、お小遣いあげてよね」
孫の翔流はギターを始めて、バンドを組んだらしい。高校を卒業すると留学もしたいのだとか。こりゃまだまだお金がかかりそうだ。
詩乃が写真を見つめると、穂が少し笑ったような気がした。
「悪かったわね、連れ回して」
ドアを引いて桃子がやってきた。
「いえいえ、本当にありがとうございます」と詩穂が答えているのに、桃子は「ただの貧血さ。運動しないと筋肉が鈍っちゃうからね」と、強気に返した。老人はこれくらいの方がいいのかもしれない。
ぼんやりと新大久保の記憶が戻ってきた。チーズハットグを頬張り、後退した時に見えたのはたしか虹だった。あの時にはもう頭が混乱していたのだろう。おかげで占いの結果が出ることも、颯太への想いを知られることもなく、全てが丸くおさまった。倒れてしまったけれど、仕方ない。
「詩乃、これ」
桃子が持ってきたのは、チーズハットグの串だった。
「え? どうして」
「もう一度、これ持ってきてくださいって」
「でも私のチーズは……」
「覚えてないのね。虹色のチーズは当たりだって。当たったから、もう一本」
詩乃はなんだか拍子抜けした。極度の緊張で幻覚が見えたのではなかったのだ。
安心と、もう一度あんな混乱を味合わないといけないかもしれないという気持ちで胸がいっぱいになった。
「巡回でーす。詩乃さん、戻ってよかった。お変わりないですか?」
颯太がいつものように爽やかに部屋に入ってきた。すぐに桃子の目がハートに変わったのがわかる。「ヘルパーさんご心配かけてすみません」と詩穂が頭を下げた。
詩乃は「はい。元気です」と大きな声で答えた。
「よかった、じゃあ熱だけ測っておいてくださいね。あとこれ家で焼いたのでよかったら食べてください、やっとプレゼントできるくらいの完成度になりました」
紙袋を受け取って中身を確認するとクッキーが入っていた。穂の写真とともに机の上に置く。その時、詩乃は写真の穂の顔を見てピンと来た。颯太は穂に似てるのだ。
「桃子さんの分は部屋に置いときましたよ」
颯太は答えて、次の巡回へと向かった。桃子の目はとろんとしたまま、彼の行方を追っていた。桃子も颯太のどこかに亡き旦那の面影を見ているのかもしれない。
「これあげるから、桃子がもう一回、占いにチャレンジしてきて」
詩乃は桃子に串を渡した。桃子は「せっかく当たったのにもったいないよ」と返事をしたけれど、詩乃はなんだかもう自分には必要がない気がした。
「外出する時は私もついて行くからね! 桃子さんの家の方にも来てもらってね」
詩穂が少し怒った。桃子はバツが悪そうに空返事をしただけだった。
※次回の更新は、2025年5月23日(金)の予定です。