ショートショートトーキョー

ファビアン(あわよくば)

第9話 土手と雷鳴

外は晴れていた。テレワークの休憩時間、お前はふとジョギングをしようと思い付いたんだよな。部屋着からTシャツと短パンに着替え、ランニングシューズを履いて玄関を出た。マンションのエントランスの前で屈伸をし、アキレス腱を伸ばし、軽く二回ジャンプをしてから、お前は走り始めた。稲荷町から浅草通りをまっすぐ進み、駒形橋(こまがたばし)の脇から隅田川沿いの歩道に入った。

お前のお気に入りの道だよな。

川沿いの風を感じながら、他のランナーにちょっと会釈したりして、いつも気分よく走っているコースだ。向こう岸の奥にそびえるスカイツリーを眺め、あの展望台にいる人から俺は見えているのだろうかなんてぼんやり考えたりして。晴れた空の下、足音が地面を叩くリズムに耳を傾けていると、都会の喧騒が遠ざかり、心が軽くなるのを感じただろう。

しばらく走って、お前は桜橋(さくらばし)に差し掛かった。隅田川に架かるいくつもの橋の中で最もお気に入りの橋だよな。

数年前、お前は桜橋の上から遠くに東京タワーが見えることを発見した。スカイツリーと東京タワーを一つの画角に収められることに胸を躍らせ、ランニングの途中で立ち止まり、スマホで何枚も写真を撮った。東京の象徴をふたつ同時に堪能できる景色を見るのが楽しみで、ここが折り返し地点になったんだ。だが、日本橋あたりの再開発で高いビルが建設されてしまい、今は東京タワーが見えなくなった。それ以来、お前の中での桜橋への思い入れは薄れてしまったけれど、変わらずこのコースを走り続けている。

今日のお前は桜橋を渡りきり台東区から墨田区へ移動したあと、まだ体力が余っていて、このまま帰るか、もう少し遠くまで走るか迷ったんだよな。少し考えたあと、白鬚橋(しらひげばし)まで走ることにした。

この判断が命取りになったんだ。

お前はペースを上げて白鬚橋まで走り、休憩がてら歩いて橋を渡った。そこで驚愕したんだ。西の空にドス黒い雨雲を発見したから。雲の下はすでに雨が降っているようで、白く靄がかかっているのが見えた。北東に向かって走っていたお前は、西の空の様子に気が付かなかったんだ。さっきまであんなに晴れていたのに。ゲリラ豪雨に遭ったら最悪だ。早く家に帰らないと、と内心焦りが募ってきた。稲荷町の家から白鬚橋までの距離はおよそ四キロといったところか。橋を渡って台東区に戻ったお前は、再び隅田川沿いの歩道を走り始めた。

 また、しばらく走ると向かい風が吹き始めた。

雲は、お前が走るよりも遥かに速くこちらに近づいてくる。

上下左右に体積を拡大させながら、空を覆い尽くしていく。

ランニングポーチの中のスマホが震え、走りながら画面を確認すると豪雨予報が何通も届いていた。だがお前はすでに限界までペースを上げているので、これ以上速く走ることはできない。

嫌な予感が込み上げてくる。

お前は桜橋まで戻ったところで、周りのランナーがほとんどいなくなっていることに気付いた。みんなゲリラ豪雨に備えて足早に切り上げて帰ったのだろうか。はたまたどこかで雨宿りをするつもりなのだろうか。不安を感じながら、お前は家路を急いだ。

稲光が走った。

数秒後、ゴロゴロと雷鳴が轟く。

 空は一気に昼間とは思えぬほど暗くなり、遂に、ポツリと雨が落ちてきた。大粒の雨だ。

みるみるうちに地面が濃く染められていった。

お前は顔を上げた。雨粒が頬を叩く。汗で湿っていたTシャツは数分でびしょ濡れになってしまった。

お前が吾妻橋(あづまばし)の下を通過した数十秒後、再び空一面に稲妻が走った。チカチカと点滅する蛍光灯のように、青白い閃光が何度も空をほとばしった。恐怖で心拍数が跳ね上がる。危険を察したお前は吾妻橋の高架下まで引き返そうと振り返ったけれど、すでに吾妻橋までは遠く、戻るには遅すぎた。お前は唇を噛み締めた。

次の瞬間、バリバリバリ、ドーンと腹の底まで響く轟音が鳴り渡った。

落ちた!

お前は、駒形橋の目と鼻の先に雷が落ちるのを目撃した。あまりの怖さに、とっさに地面に伏せた。自然の猛威に抗う術は何一つ持ち合わせていなかった。

数秒後立ち上がると、もはや短距離走のペースで駆け出した。心臓が喉元まで跳ね上がり、足が勝手に動くほどだった。バケツをひっくり返したような雨がお前を襲った。一刻も早くどこか安全な場所に避難せねばと焦りが胸を締め付けたそのとき、再び頭上でバリバリバリと轟音が鳴り響いた。

刹那、白熱の光が視界を奪った。

鼓膜が破れる爆発音。

骨の髄まで響く衝撃波。

地鳴り。

震える大地。

火花。

神の怒りが刃となって振り下ろされたかのようだった。


少しのあいだ地面に倒れていたお前は、起き上がるとすぐに駆け出した。全身の力を振り絞り、すぐそばに停泊していた屋形船に駆け込んだ。文字通り、助け船だった。助け船が屋形船だとは思ってもみなかっただろう。

室内への入り口の引き戸は鍵が閉まっていて開かなかった。なんとか恐怖から逃げられたものの、心臓の鼓動が止まらなかった。雨が船の屋根を叩き、雷鳴が唸る。横殴りの雨が容赦なくお前を襲う。お前は呆然と立ち尽くしたまま船の軒先でゲリラ豪雨を眺めていた。

いずれ天気は回復するだろうが、それまでこの頼りない屋形船の入り口で待機しないといけないのだろうか、とお前は絶望した。

そんなお前の前に現れたのは、屋形船の店員だった。法被を着た老婆が、鍵を開けて出てきたのだ。

「そのまま乗船されたら困ります。お待ちを」

 老婆はすぐに船内からバスタオルを持ってきた。お前は身震いしながら全身を拭いて、何度も感謝を伝えた。ずぶ濡れになったTシャツを脱いで絞ると、汗と雨水が混じったものが舟の床に飛び散った。避難できたことに安堵したお前は大きく息を吐いた。まるで別世界に逃げ込んだような心地だった。

「拭き終わったら、中へどうぞ」

 老婆のしゃがれた声にお前は頷いて、ずぶ濡れになったランニングシューズを脱ぎ、その中に靴下を押し込んだ。軋む板を踏んで船内に入ると、床には畳が敷かれ、その上に鉄板が埋め込まれた木製のテーブルが整然と配置されていた。壁は黄ばんでいて綺麗とはお世辞にも言えなかったけれど、なんだか味があった。もんじゃ焼きをしながら隅田川をクルーズする屋形船のようだ。

「お一人様ですか?」

 そう尋ねられたとき、お前は初めて老婆をまじまじと見た。六十代後半から七十代だろうか。顔中に深い皺があり、虚ろな目をしていた。とろろ昆布を真っ黒にしたような髪の毛は気持ち悪かった。体躯はガリガリで覇気はなく、手は震え、こんな状態で商売をやっていけるのかとゾッとした。

「あの、僕は、その、客じゃなくって」

「何を言ってんだい。船に乗ったら、お客様だよ」

 老婆は一瞬、怒ったように声を張り上げ、お前はギョッとした。それから不気味に微笑んで「これ、干しておくよ」とお前の搾り終えたTシャツを持って、船頭の方へ歩いていった。戻ってくると短パンだけになったお前に向かって「これでも着ておきな」と、法被が投げられた。寒気を感じていたお前は、ありがたく羽織らせてもらうことにした。

「本当は団体さんが来るはずだったんだ。どういうわけかキャンセルになっちゃって。だから材料はあるのよ。よかったら食べていけば」

お前は言葉に詰まった。

屋形船にはランニングの途中で避難したにすぎない。もう休憩時間も終わりそうだし、一刻も早く帰らないといけないからだ。午後には会議も予定されている。ただ……このまま売り上げに協力もせず、のうのうと雨宿りだけさせてもらって屋形船を降りて良いのだろうか。おそらくキャンセルした団体は、この雨で屋形船まで辿りつけなかったのだろう。フードロスも発生してしまうかもしれない。そう思ったお前は、助けてもらった恩を返さないといけないという使命感が湧き出てきた。

「では、お言葉に甘えます」

 お前の言葉と同時に、再び雷鳴が響いた。台風かと思うほどの暴風雨が船に打ち付け、船体は揺れている。川沿いの街灯は、もう夕方と認識したのかポツポツと灯りを灯し始めた。

「メニューを持ってくるよ」

 老婆は船頭の方へ向かった。そちらに厨房があるのだろう。

お前はスマホを取り出して、チャットで会社に連絡を入れた。朝から体調不良で、午後は有給を使わせてくれと。

少し落ち着いたお前は、改めて屋形船の中を見渡した。床の畳は湿り気を帯び、ところどころに黒いシミが広がっていた。船の両側には大きな窓が並び、濡れたガラスから稲光が差し込んでくる。壁は黄ばみ、天井にも黒いシミがたくさんあり、隅にはところどころ蜘蛛の巣が張っていた。彼岸花の柄が描かれた座布団はこれまでたくさんのお客さんが座ったのか、くったりとしていて、何重にも積まれている。テーブルの木の部分は表面がひび割れ、鉄板は少し錆びていて、食べ物の残骸が端の方にこびりついていた。よくこんな不衛生な状態で営業しているなと、お前は不思議に思った。

それよりなにより……不気味だった。

まるで何年も放置されたかのような、黴(かび)の匂いが鼻をついた。その黴臭さの奥に、さっきまで誰かいたかのような人間臭を感じていた。腐臭。生肉が腐ったようなにおい。お前は息を呑んだ。幽霊船と形容しても失礼ではないような気がした。

ここで、飯を食うのか……。

生気を吸い取られたような空気が全身を包み、背筋に冷たいものが走った。

 唯一の救いは、メニューがもんじゃであることだった。

 お好み焼き優勢の街で生まれ育ったお前は、上京するまでもんじゃを食べたことがなかった。家族でよく通ったお好み焼き屋のメニューにもんじゃは存在せず、食べる機会がなかった。知識としては知っていたが、遠い国の食べ物であるような感覚だった。

お前ともんじゃの出会いは大学二年生の時だった。大学進学を機に上京したお前に東京出身の彼女ができた。その彼女とデートで月島に行った時、初めてもんじゃを食べた。初めはもんじゃの見た目に驚いたが、食べてみると意外にも美味しかった。そして何よりお前の心を射止めたのは、彼女のもんじゃの作り方だった。大きなヘラを使って鉄板の上でキャベツを細かく切り刻んで土手を作る、その手際の良さにお前は見惚れていた。ほんわかとして、どこか抜けていた彼女がヘラを持ってキャベツと対峙する姿は、戦士のように勇ましかった。適切なタイミングで具材を投入して、食べごろを見極める所作の一つひとつが芸術のようだと思った。ずっと見ていたかった。

 物思いに耽っていると、老婆がメニューを持って戻ってきた。

「いろいろあるけど、どれにするんだい?」

 少し油の感触がするメニューを受け取り、お前はバラエティ豊富なラインナップに頭を悩ませた。チーズや明太子、イカ、エビなどのシーフード系、ぶた、餅とお好み焼きと相性の良さそうなものだけでなく、カレー、ベビースターラーメン、梅干し、トムヤムクンなど変わり種もたくさんあった。中にはあんこが入ったデザートもんじゃと呼ばれるものまで。

お前が迷っていると、老婆は「これにしな」とミックスと書いたところを指差した。えび、いか、コーン、チーズ、ウインナー、餅が入ったもののようだ。文字の横には「人気ナンバーワン」と、吹き出しがついていた。「はい、そうします」とお前は無難な選択をした。

「あいよ。じゃあ、用意してくるわね」

 老婆が鉄板に火をつけ、再び船頭の方に向かったとき、お前は船が河岸から離れていたことに気がついた。

 こんな土砂降りなのに?

 お前は疑問に感じたけれど、クルーズしながら食べることが屋形船の醍醐味だとすぐに思い出した。雷鳴の中、大波に揺られる屋形船に一抹の不安を覚えながらも、お前はこのシチュエーションを楽しむことにした。

「お待たせしました」

 運ばれてきたボウルの中には、キャベツを始め、具材がてんこ盛りに乗せられていた。

「自分で焼きますか?」

「え、っと、はい。初めてですけど挑戦したいです」

「そう。じゃあ手取り足取り教えます。簡単だから」

 お前は老婆からボウルを受け取り、指示されたとおり、鉄板に油を引いてエビ、イカ、ウインナーを炒めはじめた。「一度覚えるとずっと使える技術ですから」と老婆は続ける。しだいに食材から良い匂いがしてきて、船内に充満していた黴臭さは感じなくなった。お前は雷鳴の恐怖を徐々に忘れ、期待に胸が膨らむのを感じていた。

「軽く火が入ればよろしいです。次はキャベツを」

 ついにきた、とお前は思った。ヘラの戦士になる時が訪れたのだ。教えてもらったとおり、出汁だけをボウルに残し、キャベツを鉄板の上に乗せた。大きいヘラで千切り状のキャベツと揚げ玉をみじん切りにしていく。

カン。カン。

ヘラとヘラが当たる金属音を聞いて、お前は大学時代の彼女の所作を思い出した。あんなふうに格好良く、職人技のように刻めているだろうか。

「上手いじゃない。本当に初めて?」

「はい。自分でやるのは。昔、作ってもらった時に横で見てたんです。おとなしかった当時の彼女が、ものの見事にキャベツを高速で切り刻んだのに驚いて」

「そう」

 老婆はただ一言そう呟いたあと、しばらくして「そっちが本当の彼女なんじゃない?」と付け足した。

「え?」

「料理と運転は人を暴きます。いろいろな人を見てきていますから、わかりますよ」

 老婆はそう言ってお前からヘラを奪って、お前とは比べものにならない速さでキャベツをさらにバラバラにしていった。木っ端微塵という言葉がお前の脳裏に浮かんだ。息継ぎする間もなく、老婆はキャベツを刻み続けた。これまでの不気味でゆっくりとした所作が演技のようだった。

キャベツがしんなりしてくると、老婆は「次は、土手を作ります」と言いながら、温度の低いところに避けていたイカを潰した。キュウウウウと断末魔のようにイカたちが鳴く。

ヘラを返してもらったお前は、キャベツをドーナツ状に形成していった。

「真ん中はどれくらい穴を開ければ良いですか?」

「パーが二枚入るくらい、って言ったら人によって手の大きさが違うだろ、って言われそうだけど、いつもそうやって教えます」

「これくらいですか?」

「そうね。汁を入れた時に外に漏れ出ないようにしてください」

 お前は笑顔で頷き、土手を整えた。

「その出汁には何が入ってるんですか?」

「薄力粉、ウスターソース、鰹出汁を混ぜたもの。家でも簡単に作れます」

 老婆はボウルの中に残った出汁を、ピチャピチャと音を立てながら箸でかき混ぜた。お前の脳裏に、御伽話の挿絵で見た魔女が大きな寸胴で毒のスープをかき混ぜるシーンが浮かんだ。この老婆は基本的には優しいけれど、なんで客に不衛生と思われかねない、こんな姿で働いているのだろう。下品で、汚くて、不気味で、嫌いだ。雨が降って避難していなけりゃ絶対に触れ合いたくない人間だ。お前は芥川龍之介の『羅生門』に登場する老婆を思い出していた。

「さて、先に半分だけ汁を入れてください」

 お前は指示通り、土手の中央に汁を注ごうとボウルを傾けた。ジュワッと音が響くと同時に、船が大きく揺れた。お前の注いだ出汁が土手からはみ出した。その瞬間、老婆はお前の隣に腰掛け、耳元で囁き始めた。

「思い出しなさい。土手。堤防。遊んだ日のこと。父親とのキャッチボール。買ってもらったグローブ。父親の速い球を初めてキャッチできて喜んだこと。お前の暴投。笑いながら取りに行く父親。母親の自転車の後ろに乗せられて、土手を走ったこと。しりとりしながら。母親はどんな言葉も『り』で返してくる。腹が立ったお前は母親の背中に噛み付いて怒られた」

 この老婆、なんで過去を知ってるんだ?

 そんな疑問が頭に浮かんだと同時に、お前は信じられない光景を目にした。もんじゃの土手のほとりで、小さなお前と父親がキャッチボールしていたのだ。反対側の土手の上には、お前を乗せて自転車で走るお前の母親を見つけた。

 なんだこれは?

 幻か?

「凧揚げ。お正月に近所の子供たちと土手に集まって、誰が一番高くまで上がるか競争した。お前は近所の女の子に負けて、凧に凧をぶつけた。糸が絡まり落ちてきた。それを見て笑う幼馴染たち。土手がどこまで続いているか気になって、どこまでも走った中学時代。河口まで到着した頃には真っ暗になっていて、疲れ果てたお前。帰る体力もなく、交番に駆け込んで警察に送ってもらった」

 お前は先ほどと同じく、幼馴染が凧揚げをしている光景や、派出所のお巡りさんと喋る自分の姿を確認した。もんじゃの周りでお前の思い出が再現されていた。

「高校時代、親友同士の決闘を見に行った。お前は友達何人か集めて、どっちが勝つか千円賭けさせた。卒業間近の日には土手に集まって酒を飲んで警察に見つかり補導された。危うく進学できないところだった」

 お前は頭がおかしくなりそうだった。初めて会ったはずの老婆がお前の思い出をどんどん語ってくる状況に耐えられなくなった。老婆は「残りの汁を注ぎなさい」と指示してきた。お前が何もせずに固まっていると老婆はお前のボウルを掴んだ。その瞬間、お前は老婆を突き飛ばして、立ち上がった。こんなところにいたらダメだと直感でわかった。

「おい! 船を岸へ戻せ!」

 老婆は蹲(うずくま)ったまま何も答えなかった。

 船は波に揺られて傾き、もんじゃの土手の中の出汁までもが波打った。同時に雷鳴が鳴る。

 老婆は急に起き上がるとお前の方に突進し、机の上に置かれたボウルを持って、残りの出汁をもんじゃの中に注ぎ込もうとした。お前は嫌な予感がしてなんとか阻止しようと老婆にしがみついた。老婆はガリガリのくせにすごい力だった。しばらく拮抗(きっこう)したあと、お前は老婆の腰を蹴り飛ばし、ヘラを持って首を掻き切ろうと振りかざした。しかし交わされ、今度は老婆がお前の首を締め上げた。お前はヘラで老婆の手首を切り、その隙に逃げ出した。勢い良く入り口を蹴破って船の外に出た。隅田川の水位は堤防ギリギリの高さまで上がり、濁流と化していた。

「キエエイ」

 イカの断末魔のような雄叫びをあげた老婆は、残りの出汁を土手の真ん中にぶち込んだ。

 その瞬間、隅田川の土手が一気に崩れた。屋形船もろとも濁流が街に溢れていく。船の中では、老婆が完成させたもんじゃを何度もぐちゃぐちゃに混ぜていた。そのたびに船全体が揺れ、どこからか押し寄せた大波が船を襲った。

 お前は必死に船によじ登り、屋根の上にへばりついた。

 屋形船の窓が割れ、船内にどんどんと濁流が流れ込んでいく。老婆は何も気にせず、もんじゃを混ぜ続けている。

 屋形船は浅草の街を破壊しながら進み続けた。雷門の赤い提灯を突き破り、仲見世商店街をぶち壊し、押し流されるように浅草寺の境内に突っ込んだ。

 お前は目を凝らした。水面には数々の東京土産が浮かんでいた。窓には人力車や店の看板が突き刺ささっている。屋根から船内を覗き込むと、悪魔のようにもんじゃを混ぜていた老婆は鉄板の横に倒れていた。お前は胸を撫で下ろした。

 しかし次の瞬間、老婆は赤く染まった目を見開き、目にも止まらぬ速さでお前の顔を掴もうと襲いかかってきた。お前は持っていたヘラを老婆の額に突き刺した。老婆は血を吹き出しながら、屋形船から飛び出して濁流の中に沈んでいった。お前の意識は沈みゆく老婆を確認したあと、しだいに薄れていった。


嘘のように眩しい太陽に照らされ、お前はゆっくりと目を開いた。目の前にはランニングウェアを着た見知らぬ男がいて、お前の体を揺すっている。「おい、大丈夫か! しっかりしろ!」という声がしだいに大きく聞こえてくる。

「良かった。意識が戻った。救急車を呼んだから、頑張れ!」

お前は何も答えることができず、ただ横になっている。隅田川は、ゲリラ豪雨のせいで水は濁っているものの、穏やかに流れている。雷に打たれたお前は、ギリギリのところで生還したのだ。

俺は仕事に失敗してしまった。

避雷針に落ちようとした雷の行き先を、この鎌の魔力で少し変えてお前に直撃させたのだ。本来ならば悪人を殺さなければならないけれど、今月のノルマにあと一人足りなかったから、もうこいつでいいやと安易にお前を選んだんだよ。

それが良くなかった。

三途の川を彷徨わせるところまではうまくいったのに。走馬灯を半分見せるところまではうまくいったのに。向こう岸に渡らせる役目の船頭の老婆がヘマをこいてしまった。場所が場所だったから遊び心で屋形船を用意したけれど、それが良くなかったのかもな。

まあ、善人をこっちの世界に連れてくるって、死神の掟に反することはやったらいけねえって勉強になったよ。弄んで悪かったな。

とにかくお前はまだその時が来ていないってことだ。

さあ、救急車のサイレンが遠くから近づいてきたのが聞こえているだろう。また会う日まで、生き延びるがいい。



※次回の更新は、2025年5月2日(金)の予定です。