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ショートショートトーキョー

ファビアン(あわよくば)
第7話 [有][楽][町]
飲みすぎた。気持ち悪い。頭ん中がぐるぐる回っている。
いくら期末の打ち上げだからといって、Q3の前年比で売り上げが爆増したからといって、大の大人が集まってそんなにはしゃぐ必要はなかったはずだ。
あんなにお酒は得意じゃないと言ったのに、どんどん注がれる瓶ビール。誰が注いでいたのかは覚えていない。
「全然飲んでないじゃん、鍛治野(かじの)」
そんなふうに煽られて、きっと調子に乗って飲みすぎたのだろう。苦しいほど酔っているのだから、ビールだけじゃなくてもっと強い酒も飲んだのかもしれない。それすら覚えていない。
「吐いたら楽になるぞ」
打ち上げの途中でそう言われて、トイレにいった記憶はある。吐いたか吐いていないか覚えていない。最後の方なんて、酔いと疲れで、どこに座っていたのか、誰と何を喋ったのかもさっぱり覚えていない。
打ち上げが終わって、千鳥足で有楽町の駅まで向かった。誰かの肩を借りていたはずだが、それが誰なのかももちろん覚えていない。
記憶にあるのは、終電に間に合わなかったことだけだ。改札の中に入ってから気がつき、駅員さんに頼んで改札外に出してもらったのだった。
東京国際フォーラム前のベンチで少し休むつもりが、どうやらそのまま寝てしまったようだ。スリに合ってないといいが……と、カバンの中を探ると財布もパソコンも無事で安心した。社用パソコンが入ったカバンを放置して路上で眠るなんて、懲戒解雇されるレベルの失態だ。会社の誰にもバレていないことが不幸中の幸いだろう。
だめだ。本当に気持ち悪い。
おまけに胸が苦しくて、息がしづらい。
かといって、このベンチでずっと過ごすわけにもいかない。タクシーで川崎まで帰るのは高くつくし、仮眠ができる漫画喫茶でも探そう。たしか銀座にあったはずだ。
時計を見ると深夜二時四十分。
おれは立ち上がって、寂しく佇んでいる有楽町駅の方へ歩き始めた。二時間ほど眠れたことで頭痛はマシになっているが、胸の苦しさは続いている。
ビッグカメラの前を通り、ふと有楽町駅の改札を見ると、記憶が蘇えってきた。
おれは泣いたのだった。酔っ払って気持ち悪くて、それゆえの奇行だろう。いつも改札の中で鎮座している大黒天像の姿が見えず、台座の米俵二つだけがぽつんと残っていた。それがなぜか無性に悲しくて、咽び泣いてしまったのだ。そんなおれに駅員が優しく話しかけてくれ、休めるベンチがある場所を教えてくれたのだった。
今は改札のシャッターが降りてしまっていて、大黒天が戻ってきたのかどうか確認することはできなかった。
おれはなんとか有楽町駅の中央口まで歩いた。その間、すれ違う人々が苦しそうにしているのが目に入った。みんな酔っているのか、おれと同じようにフラフラと歩き、ときおり道端に向けて嗚咽していた。
駅前広場では何人もの人が寝ていたり、うずくまっていたり。その中にはおれの上司の熊持(くまもち)もいて、でかい腹を揺らしながら苦しそうな寝息を立てていた。
そうだ、思い出した。こいつに飲まされたんだ。お前も終電逃したのかよ。ざまあみろ。助けてやるもんか。
さらに歩く。道端には嘔吐物が点々と続いていて、苦しそうな声がこだましていた。酩酊しながら殴り合っている男女もいた。
有楽町ってこんなに治安が悪かったっけ。まるでフィラデルフィアのケンジントン。麻薬が蔓延し、廃れた町だ。
それだけではなかった。
なんだか町自体が苦しそうに感じる。
街灯は首を垂れるように傾き、電球がチカチカと点滅しながら弱々しい光を放っていた。
街路樹のツツジは花が枯れ落ち、葉がしおれて黒ずみ、助けを求める生き物のような歪な形に変形している。
年季の入った交通会館は建物自体が傾いて、ロゴの文字がところどころ剥がれ落ち、窓や壁にはひびが走っている。
マルイのロゴは食べ物が腐ったような色に変色していた。ショーウィンドウは埃と蜘蛛の巣に覆われ、ガラス越しに見えるマネキンは猫背になってうなだれている。
吉野家のオレンジ色の看板はどす黒くなり、カウンターに座る客はみな机に顔を伏せていた。店の前を通ると美味しそうな牛丼の匂いではなく、黴(かび)と嘔吐物が混じったような刺激臭が漂ってきた。
ファミリーマートの明るい看板もどこか灰色がかっている。入り口の前にはゴミが散乱し、痩せたネズミがそれを貪っていた。
水を買おうと自動ドアをくぐると、いつもよりマイナー調の入店音が鳴り響いた。店内の蛍光灯は暗く、商品棚は乱れ、店員も苦しそうに突っ伏している。セルフレジの電源が切れていたので、おれは会計を諦め、百円だけ置いて水を持ち出した。
宝くじ売り場は泥を被ったように汚く変色し、「十億円」と書かれた看板が傾き、片側を地面につけている。こんな店で当選するわけがない。
そしてなんと、その隣に鎮座しているはずの大黒天の像も消えていた。
おかしい。どうなってる。町が完全に壊れているぞ。
おまけに改札内と宝くじ売り場、有楽町に存在する大黒天の像が二体ともいなくなっているし。
まだ意識が朦朧としていて、そう見えているいるだけか?
いや飲み終わった時より幾分かしっかりしているはずだ。
胸の苦しさがさらに増し、吐き気がこみ上げてきた。胃が締め付けられるようだった。銀座まではまだ距離があり、漫画喫茶まで持ちそうにない。足も言うことをきかないし、寒気まで感じてきた。
ふらふらと進むうちに、都市開発から残された路地裏に、廃れたゲームセンターがあるのが目に留まった。薄暗い明かりが漏れている。深夜なのにまだ営業しているのか?
トイレを借りたい。もし客がいなかったら、少しの間、椅子で横にならせてもらおう。
中に入ると、古びたスロットマシンが、電源を切られた状態で並んでいた。トイレを探してさらに奥に踏み込むと、通路は右に曲がっていた。
大きな声が響いたのはその時だ。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
声の方に向かうと、通路の一番奥にポツンと独立して置かれたスロットマシンがあった。電飾が輝き、ゲーム音を出している。その前には大きな男がいて、スロットマシンをガンガン殴っていた。
そんなことしても勝てないのに。何をしてるんだ。
おれが近づくと男はこちらを向き、ほのかに笑った。
すぐに誰だかわかった。茶色い帽子、茶色い顔、茶色い衣服。信じられないほどの福耳。太りすぎて突き出した腹。「笑ゥせぇるすまん」のような風貌。間違いなく大黒天だ。大黒天を実写化するなら、おれならこうする。
改札内の大黒天は黒色なので、目の前にいるのは宝くじ売り場にいた方だろう。
こんなことってあるのか……。意識がはっきりしていないとはいえ、目の前に、あの大黒天を実写化した男がいるのだ。
「助かった。お前、百円持ってないか?」
奥に見えるトイレに行くため、おれが後ろを通ろうとすると、話しかけてきた。
ひ、百円?
大黒天なのに貧乏なのかよ。
思わず口から出そうになったが、なんだかバチが当たりそうなので言葉を引っ込めた。
なにより、嫌な予感がする。
持っているはずの打出の小槌や宝が入った袋は、どこかに落としてしまったのか見当たらない。いつも笑顔で福々しいはずの大黒天なのに、今は真顔で、ギョロっとした黒目がこちらを見ている。白目の部分は血走り、頬がこけ、涙を流したあとがある。なにより先ほどスロットマシンを殴っていた。
運の神様のはずなのに、すごく不幸そうだし、取り乱している。
堕天使ならぬ、堕大黒天。
闇堕ち大黒天、暗黒大黒天……。
そんな言葉が脳裏をよぎる。
百円、貸すのが正解か。はぐらかすのが正解か。
「早ぐじろよーーー」
堕大黒天はおれの顔をグッと覗きこみ、デスボイスのようなしゃがれた声で迫ってきた。もしかしてお願いではなく、おれは恐喝されているのか?
ふと、スロットマシンに目を向けた。そのリールの表示を見て、おれは目を見張った。
○ 有 苦 町
スロットを回す丸いレバーの隣から[有][苦][町]と文字が並んでいたのだ。
苦しみの、有る、町。
このスロットマシンに、なにか仕掛けが……?
「貴様、何をしておる! この町を壊したのは貴様の愚行だぞ!」
どうすれば良いのか戸惑っていると、入り口の方から大柄の男が血相を変えてやってきた。黒い帽子、黒い顔、黒い衣服。信じられないほどの福耳。太りすぎて突き出した腹。
間違いなく改札内の大黒天だった。
茶色の方より一回り大きく、年老いていて、いかつい顔には深い皺が刻まれている。風格からは威厳を感じ、宝くじ売り場の方ほど堕ちているようには見えなかった。
「貴様、このスロットマシンに触るなと告げたはずだ!」
「ヒッ。兄貴」
「これで町の平和と人間の暮らしを保っておるのに、貴様の愚行がすべてを台無しにしたのだぞ! 早く元に戻せ」
「ひ、百円が無くなっちまったんだ」
「バカもん!」
黒い大黒天は激昂したあと、おれの方を向いた。鋭く光る目がギラリとして、強い眼光がこちらを捉えている。
「お主、どうか、百円を借りることはできませんか?」
おれは直感で兄の方の大黒天ならば信用できると思い、財布から百円を取り出した。
「かたじけない。これ以上、続けるわけにいかんのだ」
「あの、これは一体?」
「このスロットマシンは、神様がお造りになったものだ。出る目によって有楽町の町が変容するのだ」
「そんな魔法の機械が……」
おれの予感は当たったようだ。
「元通りに戻さないといけない。多くの人が訪れる朝までには」
「あ、兄貴。どうやら僕は宝くじを当選させてやるのに運を使い切っちまったみたいだ」
「貴様しっかりせんか! とはいえ、ワシも毎日の電車の運行や人の往来のために運気を残しておかないといけないからのう。そうじゃ、お主、どうか頼まれてくれぬか?」
「お、おれですか?」
「そうじゃ。このマシンのボタンを押して[有楽町]と揃えるだけじゃ。そうしたら町は元に戻る」
できるかな。
スロットをプレイしたのは十年くらい前、大学生のころだ。友達に連れられてパチンコ店に行き、言われるがままにやってみた。ビギナーズラックもなく、千円札がどんどんマシンに吸い込まれていった。結局、七千円くらい負け。前日のバイト代はパー。二度とするかと心に誓ったのだった。
でもここはパチンコ店じゃない。ゲームセンターだ。百円で一度プレイできるなら、金銭的な痛手は少なそうだ。それに大黒天に頼まれたのだ、断る理由がない。
おれは「やってみます」と、スロット台の前にある椅子に腰掛けた。
「頼むぞ」
大黒天・兄はそう言って、力強くおれの肩をもんだ。その瞬間、なんとも表現できないような力を体内に注入されたような感覚になった。神々しさも、禍々しさも感じる。不思議なエネルギーだ。
彼は「お守りじゃ」とカードサイズの紙札をくれた。梵字というのだろうか、英語の『B』を左右反転させたような文字が筆書きされていた。おれはそれをポケットにしまい、スロット台と対峙した。
まだ頭痛や息苦しさは残っている。この苦しみも[有苦町]になってしまったことの影響なのだろう。なんとしても禍いから解放されたい。
おれはコイン投入口に百円を入れた。
リールが回り始めた。
回転が早くて、出目がわからない。
勘で押すしかない。
[有]
[苦]
しまった!
[村]
[有苦村]が出た。
瞬時に、マシになっていたはずの苦しみが、勢いを増して押し寄せてきた。頭痛と息苦しさに加え、腹痛までもが。首回りは重くなり、膝の関節に倦怠感を覚えた。
くそ!
思わずスロットマシンを叩きそうになる。もしかしたら堕大黒天も苦しみに襲われていたのかもしれない。
どうすれば良い。もう一度スロットを回せば良いのか?
おれが助けを求めて振り返ると、後ろで見守っていたはずの大黒天は、二人とも姿を消していた。
おい。
どこに行ったんだ?
苦しい。おれは何度か大きくえずいたあと、トイレに駆け込んで顔を洗った。
少しマシになってから、スロットマシンに座り直した。
待てよ……、[町]から[村]になったよな?
外はどうなっているんだ?
おれはなんとか立ち上がって入り口まで行き、自動ドアのボタンを押した。
驚くことに、そこには大きな鹿がいた。
鹿はおれを見つけるとビクリと驚き、中央広場の方へ一目散に駆け出した。
信じられなかった
幻か?
そう思いつつ、おれも後を追った。
中央広場に到着すると、その光景に絶句した。
レンガとタイルで作られていた地面の舗装はなくなり、土と砂利が広がっていた。その中心には数頭の牛がいて、干し草を食べていた。隣には農民がいて、苦しそうにうずくまっていた。
そのほかの人々はフラフラと歩くか、地面で苦しそうにしているか、嘔吐していた。熊持は大いびきをかきながら寝返りを打ち、苦しそうに唸っていた。額には大量の汗をかいている。悪夢でも見ているのだろうか。
その近くには小さな川が流れ、水車ができており、水面に流れる嘔吐物と牛糞の混合物を汲み上げていた。
建物には苔が生え、蔦が巻きつき、長年残された空き家のような出立ちになっている。
マルイの「OIOI」のロゴの「O」部分には、鷲か鷹か、大きな鳥が止まっていた。獰猛な猛禽類なのに、明らかに覇気がなく、羽はボサボサで弱そうだった。ショーウィンドウは割れ、ガラスには苔が生え、マネキンは蔦に絡まって首を垂れている。頭の上には巨大なウシガエルがいて「ンーーブ」と繰り返し鳴いていた。
吉野家の看板は深緑色になり、やはり苔が生え、蔦が巻きついていた。蔦はカウンターに突っ伏した客にまで絡んでいた。机の上にはミミズが這い、食べかけの牛丼にはハエが集っていた。店の真ん中からは大きな黒い木が生え、天井を突き破っている。黴と嘔吐物が混じったような刺激臭には、さらに土の香りが加わり、数秒嗅いだだけで吐き気が込み上げてきた。
汚く腐ったツツジからは悪臭が漂っていた。汚れた羊がその小さな葉を食べて、吐き出し、苦しそうに首を振った。
おれはひと通り村を観察したあと、耐えきれなくなり、ゲームセンタ―に戻ることにした。
その前に苔に覆われたファミリーマートに入り、二日酔いの薬や栄養ドリンクを会計せずに持ち出した。奥のレジのあたりでは、カラスがファミチキや肉まんをつついていた。
最後に泥と苔に覆われた宝くじ売り場の前を通った。
そこでなんと、茶色い大黒天の像が元の位置に戻っていることに気がついた。
なぜだ。先ほどまでゲームセンターにいたのに。
目の前に立つと、呪われたような邪悪な顔でこちらを見てニヤリと笑った。不敵な笑みだった。黒目がしっかりと見える。その瞬間「ハハハハハ」と悪魔のような声が脳内に響き渡り、これまで経験したことのない頭痛と吐き気に襲われた。思わずうずくまりそうになり、大黒天像の足に掴まる。その時、先ほど大黒天・兄に触られたときと同じような神々しさと、禍々しさの波動を感じた。大黒天は邪悪な顔でおれをしっかりと見て、さらに口を広げた。
まさか、おれはハメられたのか?
そんな予感がした。
先ほどの二人の喧嘩が芝居だとしたら?
おれにスロットの係を押し付けるための?
朽ちてしまったこの町の責任を取らせるための?
しっかりものに感じた兄の大黒天も、悪い神様だったのかもしれない。確認しに行きたいけれど、まだシャッターが開いていないはずだ。
おれはなんとかゲームセンターに戻り、再びスロットの前に座った。この忌々しい呪いから解放されるには、スロットの出目を揃えるしかない。
あるいは、おれは幻の世界に迷い込んでしまったのか? それならばなおさら脱出しないといけない。
財布の中にはあと五枚の百円玉があった。普段はキャッシュレスだが、念のため小銭は持ち歩いていたのが幸いだった。
おれは祈りを込めて投入した。
[無]
もう間違えた。
[喜]
[街]
[無喜街]が出た。
その瞬間、頭痛、腹痛、倦怠感、息苦しさはスッと消えた。重い鎖から解放されたように体が軽くなった。若干の頭痛は残っているが、これは純粋に二日酔いのものだろう。
外はどうなったんだ?
おれはゲームセンターを飛び出し、中央広場を目指した。到着して見えた光景に、呆然と立ち尽くすしかなかった。
一帯は摩天楼と化していたのだ。ガラスと鋼鉄のビル群が、空を突き刺すようにどこまでも高くそびえている。信じられないほどのスケール感だった。
有楽町の[町]が[街]に変わったせいだろう。有楽町のままで十分都会なのに、マンハッタンのような街並みになってしまった。
先ほどあれほどの自然に包まれたのに、一瞬でこんな無機質な都会に置き換わるなんて信じられない。スロットマシンの力は想像以上のようだ。
おれは少し落ち着いて街を観察した。
街灯はギラギラと輝き、ツツジはまるで造花のような感触がした。
摩天楼はもちろん、元々の有楽町をベースとしていた。
マルイも交通会館もロゴはそのまま、建物はメタリックになり、元あった部分をコピー&ペーストしたかのように天空へとそびえ立っていた。上階には何が入っているのだろうか。
驚いたのがファミリーマートで、カラフルな色彩の看板は全てシルバーに変わっていた。そして一階部分をコピー&ペーストしたまま摩天楼化し、ファミリーマートの高層ビルが完成していた。二階より上はどうやって店舗に入るかもわからない。空中に自動ドアがある。まるでゲームの世界のバグを見ているようだった。
吉野家、宝くじ売り場にはさらなる問題が起きていた。もともと新幹線の高架下にあったからだ。同じように一階の店舗だけがコピー&ペーストされて永遠に続くビルとなり、線路を突き破ってしまっていた。
ふと、あることに気が付いた。
人がいない。
音がしない。
匂いもない。
さっきまで項垂れていた酔っ払いも、喧嘩をしていた男女も、寝ていた熊持も、誰一人としていなくなっていた。
ただただ無機質な摩天楼が月に照らされ、そびえ立っていた。
心に寂しさが込み上げてきた。
おれは途端に怖くなり、ゲームセンターへと逃げ戻った。
冷静にならないといけない。
[有楽町]と、揃えるだけで良い。元の世界に戻るにはそれだけで良い。
おれはスロット台に座り、残り四枚の百円玉を握り締め、一枚をコイン投入口へ入れた。残りは三百円だ。
頼むぞ。
[無]
もうだめだ……。
[楽]
[町]
惜しい! [無楽町]だ。
外を確認するために、急いでゲームセンターを飛び出した。
そこには慣れ親しんだ有楽町の街並みが広がっていた。
中央広場、マルイ、交通会館、吉野家、宝くじ売り場、街灯、ツツジ、全てが元に戻っていた。
しかし、誰もいなかった。
[無喜街]の時と同じく[無楽町]にも人がいなかったのだ。
その時、一つの仮説が頭に浮かんだ。
リールの真ん中は、感情のリールなのではないか?
つまり、楽しい、苦しい、喜怒哀楽などといった漢字が並んでいるのではないか?
おれは確認すべく、ゲームセンターに戻った。すると今揃っている[無楽町]の[楽]の部分の上下の漢字が少し見えていた。楽の上は[苦]、下には「哀」の文字があった。
同様に[無]の上下には[有]の文字、[町]の上下には[村]と[街]の文字が見えた。
腑に落ちた。[有楽町]を分解すると、そのどの文字にも対義語や類義語が存在する。各リールがそれに対応しているのだろう。
……有無有無[有]無有無有……
……楽苦喜怒[哀]楽苦喜怒……
……街町村街[町]村街町村……
こんな具合に。有無のリール、感情のリール、村町街のリールが並んでいるはずだ。
感情、つまり人間や動物特有のものが[無]で打ち消されてしまったことで、誰もいなくなってしまったのではないか?
だとしたら一つ目のリールは必ず[有]を押さないといけない。確率的に二分の一だから、なんとかなりそうだぞ。
おれはコイン投入口に百円を入れ、レバーを下げた。残りの二百円をスロットマシンのリールの上に置く。
[有]
よし。
この瞬間、おれはスロットの出目を、なんとか目で追えるようになっていることに気がついた。酔いが完全に覚めてきたようだ。
二つ目のリールをよく見ると、やはり感情のリールが並んでいる。楽苦喜怒哀怒楽苦喜怒哀楽苦苦苦楽……どうやら規則正しくはなさそうだ。おれは[苦]のあとに続く[楽]に狙いを絞った。
あとはタイミングだけ。
そりゃ、とボタンを押す。
[怒]
間違えた……。失敗にうなだれながら、そのまま右のリールも止めた。
[港]
は?
有怒港?
み、港だと?
おれの予想は外れた。右のリールもちゃんと目で確認すればよかった。[村][町][街]だけじゃなく[港]もあるなんて。
不運なことに[港]の上下は[村][村]で、ほかの出目についての手がかりはゼロだった。残りチャンスも少ないのに。
なにしてんだよ、ボケ。
失敗してんじゃねえよ。こういうところがダメなんだよおれは。
だいたいなんでおれがこんな役割を押し付けられないといけないんだよ。
なんだかむしゃくしゃしてきた。
おれは気がついたら拳を握り締め、駆け出していた。
喧嘩したい。誰かを殴りたい。
よく考えたら小学校の時に友達と取っ組み合いの喧嘩をしてから、誰も殴ってない。大人になった今こそ、怒りのままに誰かの顔面をぶちのめしてやりたい。
おれが入り口に近づくと自動ドアが開いた。
その瞬間、潮の香りが鼻をつき、波が足元まで押し寄せてきた。目の前の道が運河になっていたのだ。
なんでこんなところまで波が打ち寄せてんだボケが。移動できないだろうが。
イラつきながら少し待っていると、目の前を漁船が通り、漁師がこちらに向いてメンチを切ってきた。
「なに見てんだよゴルァ!」
おれが凄むと「てめえが見てきたんだろ」と漁船を近づけてきた。おれは飛び乗ると同時に、漁師の首根っこを掴み、海の中へ突き落としてやった。ざまあみやがれ。
漁船を運転したことはないが、車と一緒だろ?
ハンドルを操作し、数十メートル進む。
中央広場だった場所は港に変わっていた。どす黒い海が広がり、漁船が所狭しとぎっしり並んでいる。
「魚を返せ」
「うるせえ」
漁師は互いに罵倒し合い、殴り合っていた。
良いねえ。血が騒ぐよ。
おれは船の止め方がわからなかったので、目の前の漁船にぶつけて無理やり止めた。
「なにしてんだテメエ」
中から怒り狂った漁師が顔を出した。おれはそちらに飛び移り、甲板に置いてあった高価そうな釣り竿を、海の中に投げ捨てた。
飛びかかってきた漁師をさっと交わすと、男は自分の船につまずいて、頭から海に落ちていった。
港へ上陸すると、水揚げされた魚が並んだ発泡スチロールを発見した。おれは端から順番に海に向かって蹴り飛ばした。
「なにするんだ」
突っかかってきた漁師も蹴り飛ばし、顔を殴り、船に連れ込んだ。そのままロープで縛り、ハンドル付近のレバーを「FULL」に合わせた。おれが港へ飛び移った瞬間、漁船は男を乗せたまま急発進して、奥に見えるマルイに突っ込んで行った。ショーウインドウのガラスは粉々に砕け、漁船は爆発した。
「なにしようがおれの勝手だろうが」
ああ。もっと暴れたい。
燃える漁船を眺め終わったあと、振り返ると、吉野家の中では一升瓶を持った漁師が殴り合っていた。血しぶきが上がるのを見て、美しいと思った。
店員は牛肉を煮込んだ寸胴をひっくり返して、客の頭からぶっかけた。熱湯のつゆだく。大火傷を負った客は店を飛び出し、その瞬間、通行人に殴られた。
そこらじゅうで暴力が振るわれ、人の喚き声が上がる。阿鼻叫喚の地獄絵図。
ツツジまで怒ってるのか赤く染まり、街灯はあまりの明るさに耐えきれず次々と音を立てて割れていった。
ファミリーマートからレジごと抱えた漁師が逃げ出てきて、店員が追いかけていた。追いついた店員はレジで頭を殴られてその場に倒れた。
そうだ、今の漁師から金を奪えばいいんだ。逆鱗に触れたら喧嘩ができるかもしれない。
そう思い、歩き出した瞬間、後頭部に衝撃を受けた。あまりの痛さに地面に倒れる。そのまま腹を蹴られ、仰向きになった。そこには七輪を振りかぶり、おれにとどめを刺そうとしている漁師がいた。おれはなんとか右に回転して攻撃を交わし、足を払った。転ける漁師。おれは馬乗りになり、鼻を殴り潰した。
「ってえ。てめえぶっ殺すぞ」
下になった漁師が吠えるも、完全におれが優位だ。このまま一服して、こいつの顔面に根性焼きをしてやろう。
そう思い、ポケットをまさぐる。タバコがない。どこで落としたんだ、クソが。こいつを見下しながら吸うタバコはうまいと思ったのに……。
そもそもなんで、おれがこんなゴミの相手をしないといけないんだよ。
鼻水と鼻血が混じった汚い顔を見つめているとそんな疑問が浮かんだ。
男が動くのでさらに一発殴ると、断末魔のような気持ち悪いうめき声あげた。
見たくもないもの、聞きたくもない声。
そうだ、あのスロットマシンのせいだ。おれを不快にしやがって。ぶち壊してやる。
おれは男の上から飛びのき、一目散にゲームセンターを目指した。港を駆け、海に飛び込んで運河を数十メートル泳ぐ。
ゲームセンターの入り口に這い上がると、自動ドアが開いた。
急いでスロットマシンまで向かう。
おれは勢いに任せて蹴り飛ばそうとしたが、ふと、マシンの上に置かれていた二百円を見て、なんとか我に帰った。唇を噛み締め、理性で本能を抑え込んだのだ。
悪いのはスロットを外したおれでもある。
おれだ。悪いのは、おれ。
おれは百円をコイン投入口に入れた。
まだ怒りで拳が震えているのがわかる。
とりあえず「怒」の感情だけでも無くさないと先に進めそうにない。
……有無有無有無有無有……
目がぐるぐる回る。
なんとか、リールを追う。
[有]
よし。次、感情のリールだ。
……楽苦喜怒哀楽苦喜怒……
[怒]以外を出さないと。
[楽]
なんと運任せに押したのに、思っても見ないチャンスが転がってきた。[楽]が出た途端、怒りも落ち着いてきた。
おれは慎重に最後のリールを見る。
……街町村街町村街町村……
見えてきたぞ。基本は[村][町][街]だけど、たまに変なのも混じっている。
……街町村港村街町村街町村島街町村街町山村街町村街町谷村街町村街町村海街町村街町村街国町街町村街町村……
[国]が見えた。その次に[町]がある。[国]が来るタイミングを見計らうと、およそ四秒に一回だ。
ここ、ここ、ここ、と目当ての[町]が来るリズムを刻んで、体に覚えさせる。
もう[村]も[街]も、[港]もこりごりだ。
頼む!
ここ!
[町]
出た!
[有楽町]が揃った。
安堵のため息が体全身から漏れた。
よかった。揃えることができた。
これで、元通りに戻ったはずだ。
大黒天よ、約束は果たしたぞ。
時計を見ると四時半過ぎ。もうそろそろ始発が走る時間だ。
おれはゲームセンターを出て、中央広場へ向かった。
朝日に照らされた駅前には見慣れた光景が広がっていた。
マルイの美しいガラス張りのショーウィンドウの中には、規則正しくマネキンが並んでいた。交通会館には老舗の味わいが戻り、有楽町のシンボルらしい風格があった。
吉野家からは美味しそうな牛丼の匂いが漂ってきた。
ツツジは生き生きと芽吹き、街灯は今夜の役割を終えて、次の夜に備えていた。
よかった。
おれは町を救うことができた。
有楽町を救うことができたんだ!
おれはファミリーマートに入り、水を買った。愛想の良い外国人の店員さんが笑ってくれた。余った百円は募金箱に入れた。
最後に、忌々しいゲームセンターをもう一度見ておこうと考えた。とてつもない体験は全てここから始まったのだ。
しかしどこを探しても、ゲームセンターは見当たらなかった。
確かここに……と思しき場所には、都市開発から残された古びたビルが立っているだけだった。
おかしい。壮絶な体験をしたはずなのに。
まさか、全て幻か?
村も、街も、港も、苦しさも、怒りも、大黒天との出会いも、全てが夢か幻だったというのか。
おれは冷静に考えた。
そりゃそうか、吉野家の真ん中に木が生えたり、ビルが新幹線のレールを突き破ったり、マルイに漁船が激突したり……リアルな出来事のわけがない。
おれはただ酔って悪夢を見ていたのだ。
そうに違いないし、それでいい。
もう酒は断るようにしよう。勇気を出して断れば良いのだ。
宝くじ売り場へ向かうと、木彫りの大黒様はいつものように満面の笑みに戻っていた。その目は細く、黒目は見えない。
大黒天がここにいなかった、というのもおれの思い違いかもしれない。
帰りは、改札内の大黒天も見て帰ろう。きっと持ち場に戻ってる気がする。
いや、ずっとそこにいたのだ。おれが勘違いしたからこんな事態になったのだ。
「おーい。鍛治野ー」
改札に向かっていると、スーツの裾からシャツを出して、だらしない格好で歩く熊持がいた。
「お前も終電逃したのか?」
「ええ」
「俺もだよ。駅の前で寝ちまってさあ。たまったもんじゃないよ。酒は飲み過ぎたらダメだな」
熊持の普段通りの姿を見て、おれはなぜか安心した。
「ちょっと肩を貸してくれ」
熊持はそう言って、おれの肩に手を置いて、かかとを潰して履いていた革靴を履き直した。
その瞬間、おれはおれの体内から神々しく、禍々しい何かが流れ出て、熊持の体内へ移動したような感覚を覚えた。
「俺、こっちだから、また会社でな」
「あ、はい」
熊持は何食わぬ顔で地下鉄の入り口へと降りていった。
幻じゃない。幻なんかじゃない。
おれがゲームセンターで大黒天に触れられたときに感じたエネルギーだ。それがおれの体から出た。
やっぱりおれは、本当に悪夢のような時間を過ごしたのだ。スロットの係をなすりつけられて。
おれの次のターゲットは熊持かもしれない。
思わずほくそ笑む。
電車に乗る前にタバコでも吸おうかと、ポケットをまさぐった。だがタバコはなかった。代わりにそこから出てきたのは、梵字で左右反転した『B』が書かれた紙札だった。
※次回の更新は、2025年3月21日(金)の予定です。