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ショートショートトーキョー

ファビアン(あわよくば)
第5話 水の水揚げ
「海でも見にいく?」
凹んでいる私に連絡をくれたのは、長谷亀(はせがめ)だった。私は参加できなかったけれど、この前開催された高校の同窓会で、女子の誰かから私のことを聞いたのだろう。長谷亀とは中学から一緒だけれど、喋るようになったのは高校時代、同じクラスになってからだった。
舞浜駅に集合と言われたので「まさか海ってディズニーシー?」と心をときめかせたが、連れて行かれたのはヨットハーバー。東京ディズニーリゾートの目と鼻の先にマリーナがあったなんて知らなかった。
そんなこんなで今、ディズニーシーでもビーチでもなく、海の上にいる。彼の実家が太いと知ってはいたが、まさかクルーザーを持っていたなんて。
群青色の東京湾には波が小さく踊り、太陽の光を浴びてキラキラと輝いている。春の風が髪をくすぐる。海の香りが混じった風は暖かくて心地良く、ライフジャケットの上から巻いたスカーフがふわふわと舞った。
「元気出たー?」
クルーザーのスピードを落として、長谷亀が操縦席からこちらへ向けて叫んだ。夏先取りのアロハシャツはフラミンゴ柄。
「出た。すごい出た!」
私も風音とエンジン音に声をかき消されないように、叫び返す。
正直、すっごい気分転換になってる。とてもこの瞬間を楽しんでいる。海ってやっぱ最高!
長谷亀はズレたサングラスを直しながらこちらへ来て、私の隣へ座った。ラウンド型の革張りのソファは白く輝いている。
「で、渚蔵(なぎくら)、何があったの?」
長谷亀に尋ねられた。まあ、そうだよね。ここまで来て説明しないわけには……。
「ああね。ちょっと仕事がうまくいかなくて、それを家に持ち込んで……」
「彼氏と喧嘩?」
「まあ、そんなとこ」
それしかない。連日の大喧嘩。
「仕事は、映画関係だっけ?」
「ドラマの脚本家」
「すっげえ」
「の見習い」
「彼は?」
「Webディレクターとライター。キャリア系のコラムとか書いてる」
「へえ。今は仲直りしてるの?」
「してる。けど……」
「納得はしてない?」
「うん」
きっかけは私が家で脚本を書いていて家事を押し付けすぎたことだけど、それからの喧嘩の原因は多岐にわたる。将来のこと、お金のこと、週末の予定をすっぽかしたこと……。
合理的な理屈で詰められ、私も感情的に言い返して火蓋が切られる。散る火花。たまにものが飛ぶ。脚本に使えそうな良いセリフがあったらメモして、バレて、また怒られる。今は脚本に集中したいって言ってるのに。しだいに顔を見るのも嫌になる。喧嘩したまま寝て、朝になって「ごめんね、水に流そう」なんて言われて、面倒臭いから「うん」と返事をする。けれど、心にわだかまりは残ったまま。表面上の仲直りを何度繰り返しただろう。価値観も合わないし、喧嘩するペースも早くなってきたから、私たちの関係も潮時かなあと思う。
幼馴染だし、長谷亀に話すくらいいいか、と思って全部喋った。長谷亀は他の人と違う感覚の持ち主だから意見を聞きたかったけれど、「色々あるんだな」と言われただけだった。高校時代、文化祭でのクラスの出し物も自分の意見をゴリ押ししたくせに。その強引さは大人になって鳴りを潜めたのか。期待してたのに。
というか今の長谷亀のことは、同い年、クルーザーを持ってる、それ以外のことは知らない。会うのも大学四年のころの同窓会以来なので、三年ぶり。二人で会うのは初めてだった。
「まあ、今日だけ全部忘れて、羽伸ばそうぜ」
長谷亀は再び操縦席に座った。クルーザーは速度を上げる。羽田空港近くで飛行機の着陸を見て、海ほたるの近くを通ってさらに東京湾を進む。千葉の富津岬の灯台を見て、横浜方面に旋回する。ランドマークタワー、赤レンガ倉庫、ベイブリッジを海から眺めて、また東京サイドに戻ってきた。
漁船に気がついたのはそのときだった。少し遠くで、二人がかりで網を引き上げていた。
「東京湾ってどんな魚が獲れるんだろうね?」
再びソファに戻ってきた長谷亀に尋ねた。
「色々獲れるぜ。アジ、サバ、イワシ、スズキ、カレイ、タチウオ、アナゴ。まあ季節にもよるけど。俺も小さい頃、親父に連れられてよく船釣りに来たよ」
「へえー。そうか、寿司も江戸前とか言うもんね。東京湾って昔から魚たくさん獲れたんだね」
「でも、今日は違うみたいだぜ」
「え?」
目を凝らしてみると、網にかかっているのはほとんどクラゲだった。透明な塊が大量に引っかかっている。確か、クラゲの大量発生のニュースは見たことがあるけれど、まさか東京湾でもそんな現象が起こっていたなんて……漁に支障をきたすんじゃないか。
「クラゲって食べられないよね? こんなに獲っても……」
「食べたことあるけど、毒があるやついるから、食べられる種類は限られてたはず」
クルーザーはいつの間にか潮に流され、漁船に近づいていた。
「おーい」
長谷亀は漁船に向けて叫んだ。私が手を振ると、漁師二人もこちらに向けて振りかえしてくれた。
長谷亀はクルーザーを操縦してさらに漁船に近づけた。
驚いたのは、網に引っかかっていたのがクラゲに似た、クラゲじゃない何かだったことだ。クラゲでいう傘の部分しかない。触覚が見当たらない。大きいのから小さいのまで、ただの透明なブヨブヨした塊が百個くらい網にまとわりついていた。
「これクラゲですかー?」
「クラゲ?」
そう言って漁師は笑った。二人とも六十代くらいだろうか。
「クラゲじゃねえ。似てはいるけど、これは生き物じゃねえんだよ」
「え?」
じゃあ、これは何? ゼラチンみたいな塊は?
疑問が脳裏を掠めると同時に、漁師の片方が口を開いた。
「水だ。水を獲ってるんだ」
「今日はけっこう獲れたから、あと一回で終わりだ。これから水揚げするんだよ」
水の、水揚げ? さっぱり話が見えず、ハテナが浮かびっぱなし。長谷亀も怪訝そうに漁師の様子を眺めていた。
ブヨブヨが水の塊だとしたら、なんで周りの海水と微妙に色が違うんだろう。ブヨブヨの方が明るく透き通っている。
「興味あんなら、最後、やってみるかい?」
漁師の一人がそう言ってくれたので、体験させてもらうことにした。私と長谷亀は漁船に乗り込み、代わりにもう一人の漁師にクルーザーに乗ってもらった。
「っていってもな、こうやって網を張って」
漁師は勢いよく網を投げた。
「この辺をぐるりと一周して、網を引き上げるだけなんだけどな。簡単簡単。どれ、多摩川の方まで行ってみよう」
漁船は速度を上げ、羽田空港の隣を通過した。
私と長谷亀は景色を楽しみながらも、振り落とされないよう船にしがみついていた。
多摩川河口近くに到着し、漁船は徐行になる。
「お嬢ちゃん、これ」
漁師に渡されたサングラスをかけると、海の中層くらいまでが透き通って見えた。偏光グラスだ。
海中では魚が数匹泳ぎ回っているほか、先ほど網に巻き付いていたクラゲもどきの群れが浮遊していた。潮の流れに沿って、同じ方向にゆらゆら、ゆらゆら。
長谷亀にサングラスを渡すと、しばらく眺めたあと「なるほど」と呟いた。
「これ、淡水だわ」
「え?」
「水は川から流れてくるんだ。ほら」
長谷亀の指さす方を見ると、多摩川から流れてくる淡水と、東京湾の海水の境界線がきれいに見えた。境界は数百メートル続き、徐々に薄くなり、なくなっていた。
クラゲもどきは淡水と同じ色をしているように見える。
「海水の方が塩分を含んでいて重いから下に沈むけど、最終的には混じり合って全て海水になる。でもこのブヨブヨは膜があるのか、海水と混じらずにそのまま浮遊してるね」
多摩川から流れてくるブヨブヨの何か。クラゲもどき。ゼラチン。水の塊。一体、正体はなんなんだろう。
尋ねようとしたけれど、漁師は「そろそろ戻ろう」と船をターンさせてしまった。そのまま加速して、クルーザーの留まっているあたりまで網を引き続けた。
「このボタンで網を巻くんだ」
そう教えてもらって、長谷亀がボタンを押すと機械音を立てて網が巻かれ始めた。網といってもロープくらい頑丈で、とても手では巻けそうにない。怪我しそう。
引き上げられた網には数十匹の魚とともに、大量のクラゲもどきが引っかかっていた。
「多摩川はいつも入れ食いだぜ。獲っても獲っても、水が獲れちまう。まあ川が海に注いでるから当たり前なんだろうけどよ」
「やっぱり淡水を獲ってるんですよね?」
「んだ。東京湾は多摩川のほかに荒川、隅田川、江戸川、鶴見川、小櫃川(おびつかわ)などが注いでいるから、取り放題よ」
なんのために?
この淡水は価値があるものなのだろうか。
漁師は甲板の床を外して生簀の中に魚を放り込んだ。クラゲもどきは、甲板に並べられた大きなバケツの中に入れられていく。隣のバケツの蓋を開けてみると、大量のクラゲもどきがパンパンに詰まっていた。やっぱりこの淡水は売り物なんだろう。水揚げするってさっき言ってたもんな。
手伝うように言われた私たちは、見様見真似でクラゲもどきを手に掴み、バケツに詰め込んだ。今の多摩川河口への航海でバケツ二杯分のクラゲもどきが獲れたようだ。
「火事と喧嘩は江戸の花」
漁師がそう呟く。私は長谷亀の顔を伺ったけれど、首を傾げていた。
「昔からそんなふうに言ったもんだぜ。江戸っ子は気が早ぇから派手な喧嘩が多かったんだ。『め組』の喧嘩なんて、映画や歌舞伎にもなってんだろ?」
「はあ」
「お嬢ちゃん、あんちゃん、二人は喧嘩するかい?」
喧嘩もなにも、久しぶりに会ったばかりだ。「いや、全然」と長谷亀が答える。
「仲が良いってのは良いことだな。俺はカミさんと毎日喧嘩さ。飲みすぎだの、パチンコ行くなだの、怒られるわけ。しばらく言い合いして、そのあとはどうするかって? お互いに謝って水に流すんだよ」
漁師は最後の『水に流す』に合わせて、バケツの中からクラゲもどきを一つ取り出した。
「これがその水ってわけさ」
水に流す、の水……?
「シー、耳を澄ませて」
漁師はそう言って、甲板に転がっていたモリで、手のひらの上のクラゲもどきを突いた。プシャっと膜が破れ、水がその場に飛び散った瞬間、
『だからLINEを見た時点でお前も悪いだろ』
『信じられない。リョウタが怪しいから見たんでしょ。自分のこと棚に上げないでよ。アヤって誰よ』
『大学の後輩つってんだろ。就活の相談に乗ってたの』
『じゃあ私に一言言ってから会いなよ。こそこそして。ほんと信用できない』
信じられないことに、割れると同時に、淡水の中から声が聞こえてきた。長谷亀にも確かにその声は聞こえたようで、あんぐりしている。
漁師は「あー、よくある喧嘩だ。ハズレ。シャバシャバ」と残念がった。
「ちょっと、待ってください。水に流した喧嘩の、その時の声が流れてきてるってことですか?」
「そうだよ。東京湾には色々な川が注いでるって言ったろ? つまりほぼ関東平野中の、水に流した喧嘩がここに流れてきてんのよ。今、裂いた水はさっき多摩川から獲ったから、東京か神奈川の誰かがあんな喧嘩をしたっつーことだな」
漁師は得意げにそう言って、さらに一つの淡水を持ち上げ、モリで突いた。
『親父の遺言書には、多摩の土地は長男の裕介に、とはっきり書いてあっただろ』
『そんな遺言、俺は信じない。誰かが偽造したんだよ。父さんは俺に、財産は兄貴と分けろと言ったんだ』
『公証役場で作成された遺言だぞ。これが親父の遺志だ。だいたいギャンブルで借金作って、家の畑を売って返したお前に、親父がそんなこと言うと思えねえんだわ』
『俺は納得できない。悲しいけど裁判で決着をつけるしかないね。俺、弁護士の知り合いいるから』
遺産相続での揉め事のようだ。
漁師はニンマリして「あたり。ほら」と、私たちに手を見せてきた。そこにはヌメっとしたあんかけのような液体がまとわりついていた。
「ドロドロした争いであるほど水もドロドロになんだよ。言い合いが激しかったり、テーマが深刻だったり。どういうわけか知らねえけど」
へえ。面白い。
「僕も割ってみていいですか?」
「いいよ。一つだけだぞ」
長谷亀はバケツの中に手を突っ込み、淡水を比べ始めた。
「ドロドロの水の方が重いですか?」
「良いことに気がついたね。もちろんだ。最初はわざと軽いのを割ったんだよ。水揚げしてもあんまり高く売れねえからな」
「大きさは関係ありますか?」
「大きいとセリフの量が多いんだ。だから高く売れる」
私もバケツの中をまさぐり、淡水を手に取ってみた。大きくても軽いもの、小さくても重いもの、いろんなのがある。
「これにします。渚蔵、持ってみて」
長谷亀が選んだのは、ランドセルくらいの大きさのものだった。両手でしっかり受け取ると、ずしりと重みがあった。タプタプとした液体が保存されているのがわかる。この中には、どんな喧嘩が詰め込まれてるんだろう。
私が両手で抱えたクラゲもどきを、長谷亀がモリで突いた。その瞬間とろみのある液体がまとわりつき、同時に声が聞こえてきた。
『だから、何度言えばわかるの! お盆はお婆ちゃんのお墓参りに行くっつってんじゃん。なんで勝手に予定決めるの?』
『去年のお盆に行ってただろ? 今年はもういいじゃん。沖縄行こうぜ。もうお前の分もチケット取ったんだよ。せめて交互にすればいいじゃん、墓参りと旅行』
『はあ……。もう全然わかってない。お墓参りは形式的にただ行けばいいってもんじゃないの。お婆ちゃんやご先祖様が帰ってくるお盆に、一年間の感謝を伝えて、これからもお見守りくださいって言いに行くの。あなたの家はそういうのしないわけ?』
『うちはそんなに厳しくないんだよ。家族はお盆も仕事が忙しくて、墓参りは正月にパパッと済ませるだけだからな。だいたい墓参りなんていつでも行けるじゃん、墓は逃げないし。お前、家族のことだけじゃなくて、俺の気持ちも考えろよ』
『あなたは自分の楽しみしか考えてないじゃない』
『オレは二人のことを考えてるだろ。お前こそわがままじゃないか。墓参りなんて、そんなに大げさに考えるなよ』
『大げさじゃない。私、お婆ちゃんっ子だったの。お墓参りに行きたくて何が悪いわけ。あなたは私たち二人のことを考えてるフリしてるだけだよ。結局は自分のことだけ』
気がついたら涙をこぼしていた。私と彼氏の、三日前の言い争いだった。この後三十分くらい言い争いが続いた。きっかけはお墓参りだったけれど、その後、人間性を攻撃し合った。翌朝、水に流そうって言われたけれど、問題は解決してない。
私たちの喧嘩、ここまで流れてきてたんだ。
思い出すと腹が立ってきた。なんでこんな価値観が合わない人と付き合ってるんだろ……。
抱きしめられたのはその時だった。長谷亀は私の声だと気がついたのだろう。
「楽になれよ」
そんなことを言われて、さらに涙が溢れてきた。長谷亀はさらっとハンカチを差し出してくれた。私のとろみに塗れた手が自分のアロハシャツについていることも気にもせずに、私の涙を拭ってくれた。
「渚蔵、だっせえ彼氏は放っておいて、俺と遊ぼうぜ」
長谷亀は昔から軽いし、女性慣れしてるし、遊んでそうだけど、その軽さが今はありがたかった。私も自然と抱きしめ返してしまっていた。
漁師は何が起きたかわかっているのか、わかっていないのか、私たち二人をスマホで撮影して「お似合いだねえ」と呟いた。
水の水揚げはお台場で行われるらしい。漁師は「魚は豊洲、水は台場」と格言のように教えてくれた。さらに、これから競りがあるのだそう。
「なんで夕方から競りなんですか?」
「なんでって、買う人が夕方に来るから」
そりゃそうなんだろうけど。こんな喧嘩が詰まっただけの淡水、誰が買うんだろう。
私たちを乗せた漁船と、操縦を任せっぱなしのクルーザーは東京ビッグサイト近くの倉庫に入港した。
倉庫内には漁船を停められるところがあり、水揚げを手伝う係のような人たちがたくさんいた。血気盛んな彼らに誘導されるがまま船を止めると、その中の一人が乗り込んできてバケツを陸に上げ始めた。
「大量だね」
「この二人が頑張ってくれたんだ」
ぺこりと挨拶をする。
水揚げされた淡水には、この船のものと識別できるようにシールが貼られ、重さによってカゴの中に仕分けられていった。
私たち以外にも、六つの船から水揚げされたようだった。
仕分け作業が終わると、カゴは別室へ移動させられ、重さ別に並べられた。
「もうすぐ始まるよ」
「え? 売らないんですか?」
「競りは卸売の彼らにお任せだよ。競り人って呼ぶんだけどね。魚と一緒。買いに来るのは魚の場合は仲卸業者で小売に繋いでくれるけど、水の場合は直接消費者が来るんだよ。だから朝早すぎない方が良い」
「水の消費者……どんな人が人の喧嘩を購入するんだろう」
「ほら、入ってきたよ」
自動ドアの向こうから大勢の人たちが歩いてきた。目を引いたのはのはスーツを着た集団、白衣の集団、ジャージの集団、牧師か神父さん、袈裟をきた僧侶……くらいか。それ以外の人はパーカーやTシャツなど普段着だった。
「さあ、今日の主役の大物から行きますよ。まずはこの大きくて重い水。一万円から」
私たちが水揚げした一番大きな淡水だ。
「一万一千」
「一万二千」
「一万五千」
「一万七千、まだいけますよ、皆さん」
「二万、そちらのお坊さん二万、ほか? 二万で落札、おめでとうございます」
僧侶は嬉しそうに大きな淡水を抱き抱えた。
それからも競り人は、次々と新しい淡水を紹介した。
「喧嘩ってのは、人のリアルな悩みが詰まってるんだ。悩みが必要な奴がたくさんいるんだよ。僧侶や神父さんは相談に来た人の悩みにすぐ答えられた方がいい。ラジオDJも同じだ。ビジネスマンも、カウンセラーも、精神科医も、心理学者も、弁護士も、先生も、お金をかけてでも人のリアルな悩みを知りてえんだよ。今の日本人が何で悩んで、人とぶつかってるのか。何を解決したら人の役に立てるのか、お金を稼げるのか、社会に貢献できるのか、必死で探してんだ」
腑に落ちた。
修羅場や血で血を争う喧嘩はドラマでも見せ場となる。脚本家にとって、どんな対立や葛藤を作り、キャラクター同士をぶつけるかは腕の見せ所だ。
脚本の行き詰まり……一番、水を必要としているのは私じゃないか?
「まあ、水を割ってみても自分の職業にしっくりくる喧嘩が入っているかはわからないんだけどな」
「ガチャみたいですね。悩みガチャ」
長谷亀がそう言って笑うと、理解したのかわからないけれど漁師も笑った。
市場は騒がしく、しかし秩序正しく動いている。競り人は次々と新しい淡水を競りにかけ、買い手たちは人々のリアルな悩みを少しでも多く手に入れようと値段をつり上げる。競りが進むにつれ、夕暮れが近づき、市場に西日が差し込んだ。
墓参りの話を書こう。幽霊になったお婆ちゃんが「あの人はやめときなさい」と注告してくれる話にしても良いかもしれない。
【今日は帰らない】
彼氏にそうLINEを送った。集中して脚本を書きたいからだったけれど、今日だけは長谷亀と過ごすのも良いかもしれない。もうちょっと喋ってみたい。
競りが終わると、漁師にお礼を言ってクルーザーに乗り込んだ。漁師も乗ってみたかったらしく、今度はこっちのクルーザーに三人。漁船を置いているのは船橋の方らしく、二艘で並走する。
ディズニーリゾートの沖あたりで、別の漁船が留まっているのに気がついた。浦安マリーナの方に曲がろうと速度を落としたところで、漁船から大きな声が聞こえてきた。明らかに漁師二人が言い争っている声だった。この喧嘩も水に流され、クラゲもどきとして東京湾を浮遊するのだろうか。
「嬢ちゃん、あんちゃん、あの喧嘩はリアルじゃないよ」
「え?」
「少しでも儲けようと、喧嘩を養殖してるのさ」
※次回の更新は、2025年2月21日(金)の予定です。