サンタモニカポールの センチメンタル通り練り歩き日記

ポール(サンタモニカ)

第18話 さすらい(中編その1)

時刻は午後2時。西を向く私の真上には真っ白な太陽。1億4960万km先から放たれた光線は、一切遮られることなく、直接私の体に突き刺さる。灼熱のアスファルトの上を一漕ぎするたびに汗を吹き出す私は、もはやスポンジのようだった。いくら漕いでも終わりが見えない。先程まで湘南の海にプカプカ浮かんでいた私だが、今では自らの汗に溺れそうになっている。


海から上がってリフレッシュしたての私は、とても爽快な気持ちで自転車を走らせていた。爽やかな潮風を感じながら、真夏のキラキラした海沿いを走る。江ノ島を通る時はもちろん頭の中で江ノ島が見えてきた 俺の家は遠い〜♪と歌った。その奥のサザンビーチちがさき(旧・茅ヶ崎海水浴場)には“胸騒ぎの腰つき”をしている若者たちが、夏の日を満喫していた。


じきに蒲鉾の看板が増え始め、小田原の街をすぎるとなだらかな上り坂が始まった。上り坂といっても、海で体力と気力を回復した私にとっては造作もない。景色を眺めながら、ペースも落とさずに走ることができる。徐々に緑が増え始め、心なしか空気もマイナスイオンに満ちている気がする。そしてマイナスイオンのおかげで気温がマイナスされている気もする。とにかく気持ちが良い。


しばらく小川の横を走っていると、小さな駅舎が見えた。自動販売機で水を買おうとその駅に寄ってみると、箱根板橋と書かれていた。


(え、もうここ箱根なの?)


有名な温泉地だと聞いたことがあるのだが、あたりを見渡しても湯気ひとつ立っていない。しかし、どうやらここはあの箱根らしい。私は旅館や温泉施設が立ち並ぶ定山渓を思い出し、「全然北海道の方がすげぇじゃん」と道産子であることへの誇りを感じた。何より箱根峠は地獄の坂道とよく聞くが、こんなものだったのか。箱根駅伝の選手たちが命をかけて襷を繋いでいた道も、自転車に乗ってしまえば大したことがないようだ。


この旅最大の難関ポイントだと思っていた箱根がこの程度か。高校生の頃りほちゃんと支笏湖に向かった時の道のほうが100倍しんどかった。このペースでいけば、思ったよりも早く京都に辿り着きそうだ。京都に着いたら久々に会うりょうた達とスマブラでもしよう。余った日程で大阪にいるりほちゃんにも会えるかな。


そんなことを考えながらコンパスに従って西に進んでいくと、さっきよりも緑が深くなり、坂道が急になり始めた。徐々に息も切れ始め、額からツーっと汗が流れる。なるほど。さっきのところが箱根の入り口で、ここからが本番というわけか。半年前まで毎日筋トレをしていた元アメフト部の私でも、足がかなりキツくなってきた。確かに、この道を走るのはかなりタフだ。「ごめんよ、柏原選手」……さっきまで心の中でバカにしていた山の神に懺悔をして、歯を食いしばりながら漕いだ。


「着いた!」


達成感のあまり久々に発声した私を、スーツケースを持ったカップルが通りすがりに一瞥した。


「自転車で来たのかな」

「なんかのトレーニングじゃない?」


(なんかのトレーニングじゃないです。旅の本番です)——そう心の中で答えながら汗を拭い、ペットボトルの水を飲み干した。


箱根板橋駅とは比べ物にならないほど立派な駅舎の前には「〇〇の湯」と書かれた看板や、老舗そうな旅館、そして数々の土産屋が立ち並んでいる。夏休みシーズンとあって駅前の通りは観光客で賑わっていた。さすが箱根。やっぱ定山渓よりもすごかったな。


ここは箱根湯本。どうやらここが箱根の最終地点のようだ。絶対にボスのいる地名である。なんたって箱根「湯本」だ。箱根にある数々の温泉は、ここを源流としているのだろう。ここから山を下っていった温泉をいろんなところに引いているに違いない。この先の下り道にも沢山あるだろうから途中で一風呂浴びて行こうかな。


今回ばかりは本当に関所を超えたと確信し、私は勝利の記念に黒たまごを買ったのち、また意気揚々と自転車を漕ぎ始めた。


箱根湯本を出発して5分で、私の体は海に入った時よりも濡れていた。おかしい。なんだこれ。ぜんぜん下り坂にならないじゃないか。それどころか、坂道の険しさもどんどん増している。体感、10メートル進む度に1度ずつ急になっている気がする。ペダルの重さが一漕ぎ一漕ぎ重くなっているのだ。30漕ぎほどすると一番軽いギアにしてもペダルが下がらなくなり、とうとう1mmも前に進めなくなった。あそこの地点はおそらく90度だったと思う。道ではなく壁。壁を自転車で登ることができないということは、物理が苦手な私でもわかっていたため脱出するように飛び降りる。


サドルから地面に降りた瞬間に、地球の角度がガクッと変わったようで、90度の壁から45度くらいの坂道に変わった。壁ではないとはいえ、この急坂はゆっくりと自転車を押して歩くだけでも心臓が張り裂けそうになる。息ができない。マイナスイオンよ、どこへいった。そして何より暑すぎる。太陽もさっきよりも近くなっているぞ。酸素が薄くて太陽も近い……? 宇宙? 山の神は宇宙人?


私は追い込まれるほど、スケールの大きいことを妄想して現実逃避する癖がある。


しばらくチャリ押し登山を続けていると、前の方に私と同じチャリ押し登山者の背中が見え始めた。シルバーのヘルメットに真っ赤なピタッとしたスポーツウェアからはみ出る腕が、真っ赤に日焼けしている。背筋を伸ばせば身長190cmは超えるであろうおそらく欧米系の彼は、汗を垂らしながらお菓子のカールのような姿勢で自転車を押していた。


私が後ろから「hi.」と声をかけると、彼は汗と涙でびしょびしょの顔で振り向き、苦悶の表情でひとこと「No way.」と言った。


「ありえない、信じられないよ」といった意味の言葉だと授業で習ったはずだが、この時の私には「これは道ではない(壁だ)」という意味に聞こえた。


そこからしばらくカール(と呼ばせていただく)と一緒に、つづら折りの坂道を自転車を押して歩いた。彼は私よりも2歳年上で、この夏初めてカナダから日本を訪れたのだという。彼は『ラブライブ!』のファンらしい。ちょうど最近始まったばかりのシリーズの舞台が静岡県の沼津市なので、箱根峠を越えて聖地を巡礼する旅程を立てた。この峠を越えればアニメの世界に行けると信じて頑張ってきたが、3次元と2次元を隔てる壁があまりにも「壁」すぎると気づいて、今絶望しているのだという。


カールは、私が方位磁石だけで旅をしていると伝えるとふたたび「No way.(嘘だろ?)」と眉間に皺を寄せ、京都をまで行くことを伝えるとさらに「No way.(無理だろ!)」と目を丸くし、この箱根で毎年マラソンが行われるというとやはり「No way.(これは道ではない、壁だ)」と両手を放り投げた。


しばらくカールと壁を登っていると、「この先、箱根七曲がり」と書かれた看板が見えた。ここからさらに急勾配でうねうねした山道が続くらしい。日本人の私が「oh my…」と唸っていると、ただ事じゃないと思ったカールが「what!?」と文字の意味を聞いてきた。私は直訳で「seven curves.」とだけ伝えると「no way.(もうやめてくれ)」と言いながらスマホでgoogle mapを開いた。そして現在地点から先のうねうねした曲がり道の数を、実際に数え始めた。


「one...two...three...」


「七曲り」という言葉は7回曲がっているわけではなくつづら折りになっていることを表すのを、日本人の私は知っていた。しかしそれを英訳して説明する体力も気力もなかった。


「seven...eight?  ...nine?  ten !?  eleven!!!?  Twelve!!!!」


実際のカーブの数を数え終わったカールは、今にも泣き出しそうな顔で私の目を見つめ、


「fuck.」


と言った。意味は一通りしかない。そのまま「ファック」である。


その言葉を最後に、彼は宙を見つめて何も喋らなくなってしまった。カールとの短い友情が終わってしまったのは残念だが、私も感慨に浸る余裕などなかった。これから地獄の七曲りを登っていくのに、水を飲み干してしまっていたのだ。あたりに自販機なんてないし、絶対絶滅のピンチだ。


ふと、リュックが重たいことに気づき、そういえば中に予備の水を入れていたかもしれないとチャックを開ける。


水の代わりにパンパンに詰められた「箱根黒たまご」のパッケージを見つめ、私も「ファック」と呟いた。




1億4960万km先・・・地球と太陽の距離。東京と京都の距離は約500km。日光は約8分で地球に届くので、太陽なら0.0017秒で京都に行ける。


江ノ島が見えてきた 俺の家は遠い〜♪・・・サザンオールスターズの大名曲『勝手にシンドバッド』よりアレンジ。ひばりヶ丘は江ノ島からめちゃくちゃ遠いが、太陽なら0.00018秒で辿り着ける。


箱根板橋・・・可愛らしくポツンと駅舎が立っていた。温泉地の気配はゼロだった。


定山渓・・・札幌市内にある温泉街。北海道の子供達がCMを見て憧れる「サンパレス」と「ラグーン」の二大巨頭のうち、「水の王国ラグーン」(定山渓ビューホテル)がある。どちらもでっかいウォータースライダーのあるプールである。


りほちゃんと支笏湖・・・連載第12話参照。


りょうた・・・同上。


スマブラ・・・「第乱闘スマッシュブラザーズ」。任天堂の人気ゲームシリーズ。WiiのスマブラXを中学時代に野球部でずっとやっていた。私を含め全員が地元で一番強いと言っていた。何度も負けたが、いまだに私が一番強いと思っている。


箱根湯本・・・箱根温泉街の入り口となる場所。完全に罠。名前も頂上っぽすぎる。私はここに辿り着いた時点で峠の頂点に辿り着いたと思い込んでいたが、本当は地獄の入り口だった。


黒たまご・・・黒くて食べられるだけ。重いし嵩張る。


『ラブライブ!』・・・ちょうどこの時期にアニメ『ラブライブ!サンシャイン!!』が始まったばかりで、箱根を越えたすぐの街・沼津が舞台だった。日本で始まったばかりのアニメの情報を、どうやってカールが遠いカナダで手に入れたのかはわからない。ちなみに東京からバンクーバーまでは太陽で0.025秒。



※次回の更新は、 3月11日(水)の予定です。