
ピ蔵本〜僕と僕の本たちの物語

ピストジャム
第5話 『犬も食わない』尾崎世界観 千早茜
二〇一八年に出版された尾崎世界観さんと千早茜さんが共作した恋愛小説。男性視点は尾崎さん、女性視点は千早さんが綴り、そのワンセットが全六回収録されている。
この書籍が発表されたのち、尾崎さんは『母影』と『転の声』の二作で芥川賞候補に選出され、千早さんは『しろがねの葉』で直木賞を受賞された。本作の装画は雪下まゆさん。これが文芸作品初装画だったのだが、それから辻村深月さんの『傲慢と善良』や逢坂冬馬さんの『同志少女よ、敵を撃て』や浅倉秋成さんの『六人の嘘つきな大学生』など、次々とヒット作の装画を手掛け、またたくまに誰もが一度は目にしたことのある有名装画家になっていった。本作は、そんないまや押しも押されぬ人気作家三人が集った記念碑的な作品といえる。
物語は廃棄物処理業者の作業員「大輔」と派遣秘書として働く女性「福」が最悪な出会いを果たすところから始まる。福は雇い主とともに取引先に向かっていたが、行き先を間違えて改修工事中の雑居ビルに入ってしまう。ビルに足を踏み入れた途端、福はバッグの中身を床にまき散らして転倒する。廃棄物を抱きかかえる大輔とぶつかってしまったのだ。大輔は軽く頭を下げて「すんません」と謝罪するが、誠意が感じられない。福はその態度に激高し、大輔をお前呼ばわりし、口汚く罵倒する。
ここまでが第一回。どう考えても、ここから恋愛が始まるとはとうてい思えない。続きが気になる第二回、なんともう二人は交際していて、福の大学時代の先輩が司会を務めるトークショーに二人で行くシーンから始まる。
行間を読むという言葉があるけれど、これはもっと幅が広い。第一回と第二回のあいだ、「回間」を読まなければならない。
読み手としても書き手としても、恋愛小説におけるなれそめ部分は物語のポイントになる重要な場面なので普通だったら絶対に外せない。しかし、本作ではいっさいそこが描かれていない。そして、第三回ではすでに同棲がスタートしている。
本作の最大の魅力は、この回間を読者に想像させるところにある。
大輔はつねに鬱々としていて、身なりも汚いし、好き嫌いが激しいし、考えていることを言葉で伝えたり共有しようとしないのでまわりからすると突発的におかしな行動をする男だと思われている。一方、福は仕事もプライベートも自分はうまくやれているほうだと思っているけれど、頭に血がのぼるといつも間違った選択をしてしまい、その間違いがどんどん大きくなってしまうと自覚している。くわえて、二人はとにかく喧嘩が絶えない。表題どおり犬も食わない夫婦喧嘩を終始繰り返す。
こんな二人がなぜ恋愛関係になったのか。はたまた、なぜ別れないのか。
そこが謎でもあり、真実でもある。つまるところ、恋愛の実態は当事者同士にしかわからない。まわりからどれだけ「別れたほうがいい」と言われても、離れられないこともある。それがわかるからこそ二人の行方が気になるし、ふとした一文に福は大輔のこういうところが好きなんだとか、大輔は福にこういう気持ちを抱いていたんだとか、たがいの感情がほろっとこぼれた記述を発見して、たとえ理解できなくてもそれらがページをめくる推進力になり、物語にどんどん引き込まれていく。
あと、読みどころとしては尾崎さんと千早さんが紡ぐ一編一編が、まるで平安時代の恋人が和歌のやりとりをするように呼応しているのも非常に面白い。
第一回は千早さんが描く福の語りから始まるのだが、彼女が大輔にぶつかり床にまき散らしたバッグの中身はいちごミルクの飴で、その飴は禁煙のいらいらを解消するために、なめるのではなくかみ砕くために持っていた。その描写を受けて、尾崎さんは後半の大輔の語りで「昔から、相手の言葉をかみ砕くのに時間がかかる」と返している。大輔と福の物語に重ねて、尾崎さんと千早さんの筆力の高さや遊び心を楽しめるのも本作の大きな魅力だ。
はたして大輔と福の恋愛はどんな結末を迎えるのか。ぜひ読んで確かめていただきたい。
これまで僕も数人の女性と交際してきたけれど、振り返れば僕は大輔と同じくダメな彼氏だったなと思う。いや、正直に書くと「振り返れば」とまるで当時は思っていなかったように書いたけれど、そのときからダメな彼氏だと自覚はしていた。
自分本位で身勝手。別れ話をする労力を考えたら、嫌われてフラれたほうが楽だと思っていた。
「結婚できないなら別れる」とはっきり言われたこともあるし、「あなたとつきあってるのは楽しいけれど、すごろくで言ったらずっとその場でジャンプしてるだけで、全然前に進まないから別れたい」と絶妙な例えをまじえてフラれたこともあった。
ちなみに、一番強烈だったセリフは「笑顔も嫌いになった」。笑顔に勝るものはないと聞いていたのに、それすら嫌いになるだなんて。あまりに面食らって思わず吹き出してしまい、また笑顔をさらしてしまった。
いま僕は長くおつきあいしている人がいる。彼女は僕のことを受け入れてくれていて仲はいいと思っているのだが、あまり長々とここで昔の恋愛について語っていると、これが原因でフラれたり、犬も食わない喧嘩が勃発する可能性がなきにしもあらずなので、これくらいにしておこうと思う。
『犬も食わない』
著/尾崎世界観 千早茜
発行/新潮社
※次回の更新は、2月5日(水)の予定です。