
ピ蔵本〜僕と僕の本たちの物語

ピストジャム
第12話 『アンネの日記』アンネ・フランク
「この日記帳を心の友にしようと思います。そして、このお友だちをキティと呼びます」
ナチスに見つかる三日前まで隠れ家で綴っていたというキティと名付けられた日記。アンネは十三歳の誕生日を迎えたその二日後から日記を書き始めた。空想の親友キティに手紙を書くというかたちで紡がれた日記は二年にわたり、日常のたわいもない話から夢や恋や喜びや怒りまでが赤裸々に描かれている。
中学一年のとき、本作を読んで固まった。自分と年齢の変わらないアンネがこんなに読み応えのある日記を書いていたという事実に、感動よりも先に驚愕した。
これほんまに俺と同い年の子が書いたんか? めちゃくちゃ文章うまいし、一個一個の日記も長いし、どういうことやねんと同級生の日記をのぞき見して感心したような感覚になった。当時、僕にとっては日記なんて学校の宿題で出されたときに渋々書くものだった。なので、書きたいと思うことがこんなにもあるということが信じられなかったのだ。
自分も日記を書いてみたい。ほんの少しだけ、心のひだの部分にわずかにそんな気持ちが発芽したけれど、じゃ何を書けばいいのだろうと考えて躊躇してしまい、やはり自ら進んで日記をつけることはなく、たまに部活の日誌でちょっと日記めいたものを書いてみるくらいだった。
高校に入学して間もないころ、たまたま母が高校時代に書いていた日記帳を見つけた。(『ピ蔵本』第六話に詳細を書いているので、ぜひそちらも読んでみてください)
そのことががきっかけで僕の日記熱は再熱し、それを知った母が『五年日誌』というコープ(生協)で販売されていた日記帳をくれたのだった。
その日記帳は一月一日から十二月三十一日まで一ページごとに日付が振られていて、ページの中は五段に分かれており、一周目の年は最上段、二周目の年はその次の段、と五周すれば五年分の日記がみっちり書けるようになっていた。
僕はそれを十七歳から二十一歳にかけてすべて書き切った。くわえて、新たに『五年日誌』を買い直して、二冊目にまで突入した。
結果、二冊目は二年分くらいしか書かなかったのだが、少なくとも僕は十七歳から二十三歳までの七年間は毎日何かしら書いていた。しかし、その内容は『アンネの日記』とはほど遠く、けっして人には見せられないひどいものだった。
まず、まともな文章が綴られていたのは最初の数年間だけ。そのころは自分の悩みや抱えていた問題について心の内を吐露するように綴っていたのだが、だんだんそれが童話『王様の耳はロバの耳』に登場する床屋みたいに、掘った穴に向かって「王様の耳はロバの耳!」と叫ぶかのごとく、どこにも吐き出すことのできない鬱憤をぶつける「呪いの書」みたいになってきて、冷静に日記を見返したときに俺はいったい何を書いてねんと情けなくなり、いつからか「会った人の名前」「訪れた店や場所」「体重」などの単なる記録の羅列と、その日が楽しい一日だったかどうか六段階評価で自己判定したアルファベットを記すだけになっていった。
「しゅっち しっぽとら 68.9 B」「キムケン 旗の台 70.3 E」「はるぴん はるぴんち 69.2 S」みたいな暗号のような文言がひたすら五年以上続くだけの日記は自分で見返しても不気味でしかなかった。しかも、これらはだいたい寝落ちする寸前に書いているのでミミズが這ったようなダイイングメッセージみたいになっていて、何を書いているのか全然わからない日がほとんどで、書いてある文字を読み取れても詳細がないので誰のことなのかまったく思い出せなかったり、ただただ大きく「×」とだけ書かれた、いったい何があってん? と当時の自分に訊いてみたくなるような謎の一日があったり、いったい俺は誰のために何を書いてんねんと冷めてしまって、ついに日記をつけるのをやめてしまった。
ちなみに、その日記はもう手もとに残っていない。何度か引っ越したことで、たぶんどこかのタイミングで捨ててしまったのだと思う。捨てなければよかった、いま読み返したらきっと笑えるのにと少しは思うけれど、俺は過去を振り返らない男なのだと自分に言い聞かせて、今日もまた過去の話をほじくり返して書いている。
『アンネの日記』
著/アンネ・フランク
訳/皆藤幸蔵
発行/文藝春秋
※次回の更新は、5月14日(水)の予定です。