人間劇場

山名文和(アキナ)

第1話 瀬戸(1)

 まるで最終回のような夕焼けだったが、正雄にとっては始まりを感じさせた。蜻蛉(とんぼ)こそ飛んでいないものの季節は変わったと思わせる見事な夕陽が、正雄を赤く照らしている。半袖シャツの正雄の身体に、乾いた冷たい風が、撫でるように吹いていた。それでも寒いという感覚は、なかった。むしろそんな意識を奪われる程に、正雄は、高揚していたのかもしれない。


 ブランコと鉄棒しかないひばり公園は、普段からあまり人気がない。決して広いとはいえないその公園の中央には、水色の時計台が立っている。正雄は、この時計台をあまり好きではなかった。錆がかったなんとも言えない水色と場違いな大きいアナログの盤面が、奇妙に思えて仕方なかった。昼間はまだいいのだが、あたりが暗くなると、より不気味なものに見えた。ただ、人があまり居ないのは、中学一年生の正雄にとって谷村と秀ちゃんと集まるには、絶好の場所でもあった。


「うわ、もうこんな時間か」

 正雄は、時計台を見ながら呟くように言った。少し声がうわずってしまった気がして恥ずかしくなる。

「ほんまやね」

 瀬戸君は、大きくはないがはっきりとした声で口にした。二人きりになってしまった公園のベンチで、正雄は少し緊張しながらも、それを悟られないよう、選ぶように言葉を続ける。

「今日な、瀬戸君と遊べて、俺は、すごい楽しかってん。だからさ、これからも今日のメンバーで遊ばん?」

 言いながら、正雄は、自分でも気づかないうちにゆっくりと太ももを摩(さす)っていた。寒さからではない。正雄の中でずっと確認したかったことだった。 

「え、いいの?」 

 その声に弾みを感じた正雄は、ちらりと瀬戸君に目を遣(や)る。瀬戸君の口角は、上がっているように見えた。その横顔を見て、僕の直感が正しかったことを改めて実感できた。


 瀬戸君は、三日前に正雄の通う中学校に隣町から転校してきた。隣町には、大型のショッピングモールなどもあり、休みになると車に乗って家族で出かけたりもする。たった十五分しか離れていない街だったが、正雄にとって新鮮で見知らぬ世界が広がっていた。

 瀬戸君は小柄でひょろっとした体型をしていて、中央から綺麗に分けられた、すとんと落ちる髪は、耳上で丁寧に切り揃えられていた。髪の下が刈り上げられているのに気づき、正雄はどきっとした。確かツーブロックという名称だったと思う。雑誌やテレビでしか見たことのないそれは、大人びた気配を漂わせていた。

 同じ気配を周りの皆も感じ取ったのか、初めの二日間、瀬戸君は殆ど誰にも話しかけられずに居た。自分の席に座り、何かの小説を読んでいた。周囲のまごまごした空気に気を留めることもなく、文庫にただ目を落とす姿が、なんだかカッコよく見えて羨ましく思えた。

 周りを拒絶しているわけでもなく、かといって話しかけられていないことによる焦りも感じなかった。

 瀬戸君は、あくまで極めて自然に本を読んでいるように見えた。近づきがたい洗練された見た目とは違って、ひょっとしたらこんな僕でも話しかけられるかもしれない、そんな隙も感じさせた。

 

「今日な、瀬戸君、放課後遊べるか誘ってみいひん?」

 昼休み、正雄は、思いきって谷村と秀ちゃんに提案してみた。一瞬、二人は誰のこと? のような顔で教室を見渡した。二人の頭が、瀬戸君を確認するように止まった。 

「なんで?」

 谷村は、怪訝そうに呟く。

「いや、なんとなくやねんけど、誰とも話してないみたいやし。それやったら誘ってみようかなって」

「いいねんけど、あいつなんか近づきにくない? 目なんかな? あの細い目、こわいねん」

 

 瀬戸君に聞こえそうな馬鹿でかい声で、谷村は言った。

 谷村は、声が大きい。谷村は五人兄弟でその三男にあたる。兄弟が多いと声が大きくなるのかもしれない。一番上の兄は、次の春から電気系の専門学校に入学することが決まっているらしく、奨学金の審査が通ったと喜んでいた。谷村の持ち物の殆どは、兄や親戚からもらった物で、それらは全て、お世辞にも状態のいいものではない。二つ上の次男からのお下がりの学生ズボンは、かなりくたびれ、生地は薄く、腿から膝にかけていつ破れてもおかしくないほどに光沢があった。それでも谷村は、本音のところは分からないが、嫌がって使っているようには見えなかった。

 兄弟まとめて月に一度刈り上げるという谷村の髪は、元々硬いせいか不揃いに切り揃えられたタワシのように伸びきり、月末が近づいていることを教えてくれた。


 谷村は、僕と秀ちゃんと三人で遊ぶことが殆どだが、分け隔てなくどこのグループとも遊べるフットワークの軽さを持っていた。家にゲーム機がないので、できる場所があればどこまでも自転車を漕いでいくような奴だ。

 いつも明るくて気のいい奴なのだが、弁当の時間「それ一個ちょうだい。これと変えへん?」と言ってくるところは、少し苦手だった。正雄は、自分の母親以外の他人が作ったものを食べることに抵抗がある。平気で食べる谷村に、正雄は逞しいなと感心した。反面、少しうんざりもしていた。初めのうちはよかったが、ほぼ毎日続くその提案に、いつからか気が重くなりだしていた。

 他人の弁当を食べたいという気持ちには共感できない。むしろ、できる人間は少ないと思う。なのに、そこの了解も得ず、己の一品を与えれば問題ないと思っている傲慢な姿勢が、卑しく思えた。自分が食べたいと思う気持ちを抑えきれず、谷村の客観視できていない状況に腹立たしくもなっていた。かと言って、今さら「ごめん、他人の弁当食べられへんねん」と言える強さも正雄にはなかった。それを言えば、これまでの谷村を全て否定してしまいそうな気がした。

 結局、自分の一品をあげて、相手のものは「いや、そんな腹減ってないから」と嘘をついて丁重に断り、時々はなるべく口に入れても我慢できそうなおかずを選び、息を止めて一気に食べることにしていた。だから、そんな配慮に欠ける谷村が、誰かを警戒しているのを見て、正雄は驚いた。


「そうなんや、けど俺はな、ええやつそうな気がすんねんな」

 一瞬、自分の判断が間違っているのかと少しだけ不安になりながら、正雄は食い下がった。

「そっか。お前がそう思うんやったらええよ」

 拍子抜けするほどに、谷村はからっと笑って言った。

「たまたまそんなふうに見えただけかも。なんか、ごめんな」

 谷村は続けた。こんなふうに即座に切り替えることができるなら、お弁当のことについても話せばわかってくれるのかもしれない。

「秀ちゃんは、どう?」

「うん、全然いいで」

 

 秀ちゃんは、幼稚園から一緒にいる幼馴染だ。正直、訊く前から快諾してくれることは、なんとなくわかっていた。

 父親が高校の先生をしていることもあるのか、成績が良く落ち着きがあった。

 長屋の木造住宅が立ち並ぶこの町で、二階建ての真っ白な壁の家に住んでいることが、幼い頃から正雄は羨ましかった。きっと両親のことを「パパ」「ママ」と呼んでいるんだろうなと思う。

 彼は常に余裕があるように見え、自分からなにかを話すタイプではないが、こちらが話しかければどんなことでも聞いてくれる、安心できる存在であった。正雄と谷村のバランスを保たせてくれているのは、ひょっとすると秀ちゃんかもしれない、と正雄は考える。谷村と揉めるわけではないが、秀ちゃんが加わることで様々なことが丸く収まり物事を円滑にしてくれている気がする。

  短い相談が終わり、正雄たちは席に戻った。


「正直な、瀬戸君誘って今日来てくれるって思ってなかった」

「なんで?」

 瀬戸君は驚いたような目でこちらを見た。

「いや、なんかさ瀬戸君てお洒落やしこんな芋っぽい俺らなんかと遊ばんやろなって」

 瀬戸君のベルトループに髑髏とビリヤードの玉のキーホルダーが並んで付けられていることに気づいたのは、コンビニに寄って公園に着いたときだった。正雄は、一瞬、おっ、となった。近づいた距離が、また離れた気がした。そんなところにキーホルダーをつけようなんて思ったことがなかった。谷村と秀ちゃんが気づいていたかは分からない。でも、秀ちゃんは気づいている、谷村は気づいていない、そんな気がした。


「実はさ、俺、不安やってん。引っ越してきて、誰とも殆ど話せへんまま三日も過ぎてさ。そんな時に、正雄君らが誘ってくれて嬉しかってん」

 それを聞いた正雄は驚いた。放課後、谷村と秀ちゃんに付いてきてもらい、五限目終わり、振り絞った勇気で声をかけた。声は震えていた。そうさせたのは、こちらを向いた瀬戸君の目が狐のように細く、冷たく感じたからだ。そしてその目は、一瞬僕たちの頭から足の先まで、まるで品定めするように動いた気がしたからだ。

 よくよく考えれば、知らない人間に声をかけられたら誰だって無意識に危険がないか全体を把握したくなる。それだけのことだったのだ。思い過ごしだったのだ。お互い緊張していたんだろう。

 僕は、嬉しくなった。一人の人間を助けたような満足感、同時に誘うことが間違っていなかったという優越感で、今日初めて瀬戸君と目を合わせることができた気がした。一気に調子づいた正雄は、堰(せき)を切ったように話しかけた。


「そんな風に思ってるなんか、全然分からんかった。うわあ、なんかめっちゃ嬉しいわ。谷村と秀ちゃんさ、今日たまったま塾やったり家の用事やったりでついさっき帰ったけどさ、多分あいつらもまた瀬戸君と遊びたい思てると思うねん」

 育った町なんか関係ないのかもしれない。考え過ぎた自分が今となっては恥ずかしく思えた。

「ほんま? それやったら嬉しいなあ」

「ほんまほんま。俺が言うてるから間違いない」

「内容的にも良かったしね。あ、谷村君やっけ? 俺さ、あんなに声のでかい人間初めて見たかも」

 瀬戸君は、可笑しそうに笑って言った。我慢はしたが、堪えきれずといった感じだ。瀬戸君が踏み込んでくれたおかげで、正雄の中の遠慮していた何かがふっと消えた気がした。

「そやねん、あいつと内緒話なんか絶対でけへんで」

 正雄も笑いながら返す。

「やろうな。谷村のこと、今後注目やな」

「もう、谷村いうてるやん。はやっ」

「もう逆にええやろ。谷村に君ておかしいやん。谷村は谷村」 


 そこまで言うと、瀬戸君は今日一番の笑い声を上げた。聞いたこともないような高い声で。上を向き、目尻を下げ、口を大きく開いて笑った。狐が吠えているようだと、正雄は思った。「夜の狐は見たらあかん」と、祖母が生前言っていたのを思い出した。それと同時にこんなにも楽しそうに笑う瀬戸君を見て嬉しくなった。


「なんかもう、二人でも余裕で遊べるかも。瀬戸君、話しやすいわ。二人になって二十分くらいやけど、俺もういけるわ」

 正雄の声は瀬戸君の笑い声に合わすようにより大きくなっている。瀬戸君の返事を待たず、正雄は話し続ける。

「だからさ、今日遊んでみてなんか思うこととかあったらなんでもいうてな。前の街のノリとかもあると思うねん。俺、そんなん全く気にせえへんし」

 

 これからの新しい未来を想いながら、正雄はほとんど沈みかける夕陽を眺めた。次に遊ぶときは、瀬戸君の地元遊びを教えて貰おう。新しい風が、谷村と秀ちゃん、正雄の三人にこっそりと吹こうとしているのを、正雄は感じていた。

「じゃあ、帰ろっか」

 そう言った正雄は、瀬戸君に目を遣るといつの間にか俯いていることに気づいた。その表情は、笑っているようにも何かを躊躇い歯を食いしばっているようにも見える。影になりうまく読み取れない。


「どうしたん?」

 正雄は、静かに尋ねた。さっきまでの笑顔は、なんだったんだろうか。気を悪くさせるようなことをいっただろうか。


 正雄には気の遠くなるような時間に感じた。実際にはほんの数秒だった。気づけば、陽はほとんど沈みかけている。暗がりの中、瀬戸君の横顔を見つめながら、正雄は思った。夜の狐だと。そんな正雄をよそに、瀬戸君は、ゆっくりと口を開いた……。

 


 

(つづく)

※次回の更新は、12月26日(木)の予定です。