
人間劇場

山名文和(アキナ)
第6話 お遊戯会
朝八時、私は二階の寝室からリビングに降りた。本当は、休日くらいはもう少しゆっくりと寝ていたいのだが、どうにも目は覚めてしまう。そのくせ眠気はしっかり残っている。疲れをとる最良の手段が睡眠だとよく言うが、ならば目が覚めてしまう人間はどうしたらいいのだろうか。
欠伸をしながらリビングに入ると、いつもは走って飛び込んでくる息子のたけしだが、今日はそのお迎えは無かった。見るとたけしは一生懸命身振り手振りを使って、なにやらぶつぶつ言っている。そうか、もうすぐ幼稚園のお遊戯会とか言っていたな。私は一人口角をあげる。ようやく私に気づいたたけしは、くるりと振り返るや否やおはようと一つ言うと、すぐにまた背中を向け自分の世界に戻った。「お母さんは?」邪魔をするようで憚られたが、たけしの背後から尋ねると、「うん、ちょっと買い物行ってくるって」と気のない返事が返ってきた。
私は、驚いた。五歳のこの子からしたら買い物なんて付いて行きたい年頃。それ以上に大事なものができたのかと、嬉しい反面その成長にすこし淋しくなった。こうやって、私の知らないところで親を離れていくんだと。四十歳を越え結婚し五十手前になった今、日々くるくると変わり続ける息子の表情が、尊い。
カウンターキッチンの上の飲みかけの珈琲からはまだ湯気が立っている。妻が出てからそれほど時間は立っていないのだろう。おそらく神田屋のバターロールを買いに行ったのだろう。朝の七時に開店する神田屋のバターロールは、早い時には九時を過ぎると売り切れてしまうほどの人気商品である。初めて食べた時は、皆がいうほどのものには感じなかったが、数日経った時に不思議と欲している自分に気づき、それからは沼に嵌まるように食卓にないと落ち着かなくなった。少し焦げの入った表面を齧ると、さくっとした食感から重なるように押し寄せてくる香ばしいバターの香り、それでいて中の生地はふわふわで口の中でほどけていくような不思議な食感に魅了されてしまう。そんなことを考えていると、すぐにでも食べたくなり、私は唾液を飲み込んだ。
「たけし、今度のお遊戯会、桃組さんなにするんやった?」
「桃太郎」相変わらず気のない返事が返ってくる。
「そうか。たけしもなにかするんか?」
「うん。やる!」これだけ一生懸命練習しているのだから、何かをすることくらい一目瞭然だ。それでもついつい訊いてしまう。わかりきった答えを敢えて訊くことで、私は安心し、とめどない愛を感じる。
「もしよかったらお父さんにちょっと見せてくれへんか?」
「えー。恥ずかしい」顔をくしゃっと赤らめ、嫌がるそぶりを見せたたけしだ が、どこか嬉しそうにも見えた。
「そうかあ、わかった。じゃあ、お父さん、我慢するな」たけしの気持ちが手にとるようにわかる私は、敢えて引いてみる。
「うーん、じゃあ、ちょっとだけやで」ほら、来た。可愛い魚は、向こうから食いついてきた。やはり所詮子供だなと思う、と同時にいつまでもこんなふうに純粋な心で育って欲しいと願う。妻は見たのだろうか。出来れば一緒に見たい気持ちもあるが、私はどうにも我慢できそうにない。
「お父さん、お願いある」
「どうしたんや」
「もしおかしなとこあったらすぐ手上げて言って欲しい」私は、驚いた。手を上げて言って欲しい、そんな希望を出してくるとは。私の知らないところで、成長していく息子の姿に目を見張る。たとえ下手でもやりきることで満足する歳ではないのか。他人の意見を吸収しさらに良いものにしようとする向上心に感嘆した。出来ればこの瞬間を妻と共有したかった。こっそりと目尻を拭った淡いベージュのパジャマの袖が、濡れて茶色になった。
いつの間にか、調子づいたたけしはなにやらバタバタと準備を始めている。金色の可愛らしいジャケットをぎこちなく羽織っている。忙しなく準備に取り掛かる姿をみて、私は笑ってしまう。子供が目まぐるしく表情を変えるたび、それに応じてこちらの心も忙しいほどに変化する。それが、とても幸せだと思う。
「じゃあ、お父さん、こうして桃太郎は平和に暮らしましたとさって言って! そのあと、こっちからでてくるから!」と、リビングを飛び出し廊下の方へ出ていく。さっきまでの照れていたたけしはどこにもいない。やる気に溢れている。
桃太郎は平和に暮らしました、終わってしまうのではないのだろうか。そうか、この後の続きの世界を演じてくれるのか。それならば、脚本としては高度なものをやっていることになる。とにもかくにも、私は、1つ深呼吸をして大きな声でゆっくりと言った。
「桃太郎は平和に暮らしましたとさ」
次の瞬間、リビングの扉が一気に開き、満べんの笑みでたけしが勢いよく入ってきた。
「はいどーもー! 今ね桃組さんの桃太郎が終わったとこなんですけども、どうでした? 皆今日のこの日のために一生懸命練習してくれました。桃組さんに改めて拍手ー!」
前説やん。たけし、前説すんねや。
「ちょっとね、今後ろで撤収作業してまして、まだちょっと時間あるいうことなんで喋らせてもらいます。ほんまに、今日に至るまで色んなことありました。ゆみちゃんがインフルなったん皮切りに立て続けに体調不良続出して、一度はもうやめとこかって。でもそんな時に、担任の花村先生が、みんな大丈夫、みんなが元気になったら練習しようねって。あの一言無かったら、桃組崩壊してたんちゃうかなっておもてます。あの日の帰り道、やけに太陽が眩しかったんも、なんか桃組の背中押してくれた気したっていうか。あの時、あの瞬間、折れない気持ちを教えてくれた花村先生に、クラス代表してお礼させてもらえたらなと思います。花村先生! ほんまに、ありゃした! 拍手ー!」
え、泣いてるやん。たけし、ほんまに、泣いてるやん。
私はびっくりして一旦止めようと手をあげた。
「あ、お兄さん、トイレいきたいすか??」
いや、ちゃうねん。
「もしそやったら、そのまま我慢してください。我慢したら意味ないか」
ボケてきたやん。
「とりあえずお兄さん、トイレあちらにあるんで、職員に伝えたら誘導してもらえると思いますんで」
ボケたあとのフォロー完璧やん。
「このあとね、たんぽぽ組さんの演目あるんでそれもまた楽しんでほしいなあとおもてます。噂によると、金太郎するみたいで。熊の着ぐるみ一生懸命作ってたんが、印象的です。なんで、もしよかったら、始まる時大きな声拍手で迎えたってください」
一文字も噛むことなく、やり切る息子にいつのまにか私は拍手を送る。
「お兄さん、まだ早いわ! まだ始まらんから! お兄さん、おもろいな!」
お前がな。
「ほな、そろそろ時間ということで、これで終わらせてもらいます。中説の桃組、磯部たけしでした。たんぽぽ組終わりまた出てきますんで! それでは一旦ありがとうございました!」
あ、たんぽぽ組終わりも出てくるんや。
ほなもう全体通してのやつなんや。
桃組とか関係なく、独立した動きすんねや。
すげえな。誰から頼まれたんやろ。
「なあ、どやった?」
気づくと、廊下にはけていったたけしが、不安そうに顔を覗かせこちらを見ている。
「たけしは、どうやった?」
どう言えば良いか分からない私は、つい訊き返す。
「どうなんやろ。自分でもよくわからんねん。なんかあかんとこあるかなあ」
今目の前にいる息子と、先ほどの息子らしき人間は、同一人物なんだろうか。叩いて叩いて時間をかけて作り上げたような、あのだみ声は、たけしだったんだろうか。妻は、見たんだろうか。果たして、本当に神田屋に行ったんだろうか。まさかこれを見て、妻は……。ひどく眠い。妻は、いつ帰ってくるのだろうか。
※次回の更新は、2025年3月13日(木)の予定です。