
自意識過剰デトックス

狩野大(バリカタ友情飯)
第9話 タバコへの憧れ
お笑い芸人をやっていて、後悔というものはあまり感じない。
後悔するとしたら、芸人になるかならないかの決断だけだろうか。しかし仕事においては、後悔を覚えるほどのターニングポイントに直面してないだけかもしれないと思っている。だから芸人になったこと自体にも、まだ後悔の念が芽生える段階にすら達していない。
しかしそんな僕でも、芸歴9年目での後悔が実は1つだけある。
芸人をやっていて数少ない後悔、それは「タバコを吸っておけば良かった」……これだ。
喫煙者はよく言う。「タバコなんて金かかるし、体に悪いし、喫煙所も少ないし、良いことねーよ?(笑)」と。
いや「(笑)」じゃないのよ。じゃあなんでそれ吸いながら僕に軽やかに説いてんだ??
なんか皆やけにそれ、楽しそうに話すじゃん?
その横にいたもう1人の喫煙者も「マジでそーよ?(笑)」とか被せてくる。わかったって。
ただこの空気感も含めて、僕がタバコを吸わない後悔の最大の理由、それは「ただただ寂しい」。もう、これ以上も以下でもない。
芸人ってのはビビるくらいタバコを吸ってる。皆さん推しの芸人を頭に思い浮かべてください。思い浮かべましたか? その人は吸ってます。もう1人思い浮かべてください。なんと、その人も意外と吸ってます。さらにもう1人思い浮かべてください。そうです。シンクロニシティなんて、2人とも吸っていますし。それくらい芸人ってのは高い喫煙率を誇るんです。
一方僕は全く吸わない。というか吸う勇気もない。
32歳という良い年齢で、震える指でマルボロつまんで試しに吸って涙目ゲホゲホッはもう見てられないし、齢30を超えた人間から出る強めの深い咳は、もはや生命の危機すら匂わせる。
しかしそれでも吸えない事でしこりが残るのは、僕が愛してやまない芸人仲間との楽しいコミュニケーションの機会損失が大量に発生するからだ。
楽屋にいると本当に信じられないくらい多くの芸人が喫煙所に吸い込まれていく。
すると楽屋で話す人がリアルに減っていく。それが中々に寂しい。
先日、ゴシップトークがすごく盛り上がってピークに差し掛かったところでゴシップの言い出しっぺであるブラゴーリ大ちゃんとネイチャーバーガー笹本さんが「こっからは喫煙所で話そう。」と言い出した時のショックったらなかった。仲良し芸人との楽しい会話の続きを試聴するには「喫煙」というメンバーシップに登録をしなければならないのは些か理不尽すぎるだろと憤った。
もちろん非喫煙者もいるから、彼らと話せば良い。良いのだが……!
一度喫煙所に行ってみたらわかった。各々が無心にタバコをスパスパ吸ってるあの空虚な空間だからこそ生まれる「ほど良い温度感」ってのがどうやら存在するということを。
ただただ足りないニコチンを摂取する、この世の誰の得にもなっていない空虚な時間。しかし、その時間こそが、ゴシップやしょうもない話をいい塩梅で楽しめる空気感と化し、話と空間が最高にマッチする。
信じられないかもしれないがこの前なんて、喫煙所で大の大人が揃いも揃って”チ◯コ”と”チ◯ポ”どっちの方が面白い響きかの議論でとんでもなく盛り上がっていた。30過ぎた大人たちがする話にしては、あまりにも生産性がなさすぎる。
それでもそれを横目で眺めていると、あの時間はタバコを吸ってなくても感じられる、なんというか、尊さがあった。
そう、何か説明のできない尊さがある。タバコを吸う人たちって。
あの喫煙可の喫茶店をウロウロ探す情けなさも、ネタ書いてる時に煮詰まりを紛らわすために吸って悦に浸ってるように見えるあの顔も、昨今のタバコの値上げと喫煙スペースの減少による肩身の狭さを愚痴る自業自得っぷりも、その肩身の狭さを分かち合い共にその業を勝手に背負う妙な連帯感も、全てがどこか人間らしさに溢れて可愛いというか、尊いのである。そんな彼らの輪に混ざれないのがどこか寂しい。
そんな僕がこの寂しさの果てに辿り着いたフェーズ。それは「エアタバコ」である。
ある日、家に帰ってソファに座り透明のタバコを手にして、2本の指で透明なマルボロを挟み、透明なBICライターを手で覆いながら透明な火をつけ、思いっきり肺に透明なヤニをぶち込み、透明な煙を宙にぶっ放してみたことがある。
何ということか。とてつもなくリラックスできた。とんでもなく落ち着いた。一服とはこういうことかと。そう、僕には喫煙の才能があったのだ。
吸ってないのに吸ってるみたいな感覚を、もう既に会得している。明白なる天賦の才。
これを後日、楽屋で後輩に嬉々として話したらこう言われた。
「それ、ただの深呼吸じゃないスか?(笑)」
恥ずかし過ぎて喫煙室に急いで逃げ込みたかったが、僕の手元にはエアタバコしかないので無理なのだった。
※次回の更新は、7月25日(金)の予定です。